【新撰組・新選組】沖田総司の謎②(家族との関係)

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前回の続き。 

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前回は、「そんなことわかりきっていることだろう!」とお叱りを受けそうな内容を羅列しまくってしまったので、今回はもう少し踏み込んでみようと思う。

 

京都で活躍した新選組

その一番隊を率いた沖田総司だが、謎が多い人物であることは、前回も述べたところだ。

沖田は、江戸にいた頃(浪士組参加前)までが一番謎が多い。

不思議なことではない。

要は、「まだ何者でもなかった」からである。

 

創作では、様々に描ける”美味しい部分”ではあるが、少し紐解いてみたい。

 

 

沖田総司の出自

陸奥国白河藩藩士江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭・沖田勝次郎の息子(長男)として、江戸白河藩屋敷で生まれたとされる。(Wikipediaより)

 

身分・家柄

新選組自体は、トップが農家の出身だったりと、身分の垣根があまり高くないことで知られているが、そうはいっても時は江戸時代。

現代では考えられないような、「身分による行動の可不可」が厳然と存在した時代である。

 

では、沖田総司の身分はどうだったのであろう。

 

上記のWikipedia引用にもあるように、陸奥国白河藩藩士ということは、武士の身分の家柄であったことがわかる。

島田魁が書き残した『英名録』にも「陸奥白川」と記載があることからも、沖田家が白河藩の武士だったのは、ほぼ間違いないだろう。

 

足軽小頭ってなに?

Wikipediaの中の「足軽小頭」。

戦国時代、足軽は意味のある役職であったが、戦乱のない江戸時代では、あまり意味をなさない役職である。

武士の中でもかなり下の存在で、便利な言葉でいうと、「下級武士」となる。

幕末になるとまた違う意味合いを持たせる藩が出てくる足軽だが、平時は最下層グループである。

 

同じ最下層グループには「中間・小者」などもあるが、明確な違いは、大小の帯刀・羽織りが許されていたのは「足軽」までだということである。そして長屋に住めたのも足軽までである。

つまり「足軽」は、武士の中の下の上程度のクラスであった。

足軽小頭ということは、1つの足軽グループの長であったということになる。

現代風に会社に言い換えると…主任といったところか。(平足軽が一般社員として)

 

足軽小頭の上には、足軽大将がおり、足軽小頭を通し、いくつかの足軽グループをまとめていた。

 

江戸時代の足軽という立場は調べ甲斐がありそうなのだが、ここは一旦見なかったふりをしたい。(やり始めたらたぶん終わらない)

 

つまり、沖田家は、最下層の武士の家柄であったが、帯刀と、羽織りが許されていたのではないかということがわかった。藩の長屋にも居住できる立場でもあった。

 

墓所

早速お墓の話で申し訳ないのだが、沖田総司の墓は麻布の専称寺というところである。

一般の墓参は禁止の場所なので、おいそれとはお参りできない。

 

普通墓参りはそんなものだろうと私は思うのだが、偉人の墓参りを趣味とする方もいらっしゃるそうなので、世の中の趣味は深いなと思う。

 

専称寺というお寺は、沖田家の菩提寺であり、沖田家の人々について書かれた過去帳も存在する。もちろん過去帳も閲覧不可だ。

というか、普通のお寺なので、外部の人間に見せるものではないというのを徹底されているのがすばらしいと思う。

過去帳は現代でいうところの戸籍帳、いわゆる個人情報の塊である。

閲覧不可は当たり前。

なので、「かつてみた」という先行研究者の言葉を信じるしかない。

 

この専称寺六本木ヒルズを麻布の方にいったところにあるのだが、江戸時代、そのあたりは白河藩下屋敷があり、そのすぐ近くに専称寺があるという地理になる。

つまり、状況証拠だけみても、彼が白河藩士の子息として生まれたということが、疑いようのないものであることがわかる。

 

生まれた年月日

沖田総司謎の1つ。生まれ年である。

昔から2つの説があり、創作する人の好みによって使い分けられてきた。

 

一方は、『沖田家文書』と呼ばれる文書にある、亡くなったと記載される年齢からの逆算(天保13年生まれ説)、もう一方は、浪士組募集時に作成された『浪士姓名簿』の年齢からの逆算(天保15年生まれ説)である。

 

『沖田家文書』と『浪士姓名簿』。どちらがより信用できる史料なのか…という問題なのだが、一旦保留とする。

 

ちなみに、生まれた月日は不明である。夏の頃だったという話がある。

当時、生まれた月日なんていうものはさして重要視はされない。 

「誕生日」などという概念がそもそも薄い。

 

理由は簡単。

生まれた年を1歳とし、1月1日にみな年をとる数え年だからだ。

残酷なのは、12月31日に生まれた子供で、翌日の1月1日には+1歳される。

生まれて2日で2歳になるのだ。すごいだろ。

 

家族構成

生き物には、みな等しく父と母がいる。

もちろん沖田総司にも。

 

父はWikipediaの引用にあった沖田勝次郎。

…かどうか、実は確定情報ではないのだが、一旦彼で仮定しておく。

母は、出自・生没年等不明である。

多摩出身で、井上家の親戚筋だったという話もある。

 

こちらに、ミツ、キンという有名な姉が2人。

そして総司。(本来は宗次郎だが、便宜上「総司」で統一する)

 

父は、専称寺過去帳によると、「弘化二年(1845)」に亡くなっている。

母は、先ほども書いたように、没年不明である。

 

母の記載については、普通、婚姻関係が続いていればの話だが、亡くなったことくらい過去帳や墓石に書いてあるんじゃないだろうか…と思っている。

 

過去帳も墓石も、先ほども言ったようにそうそう見ることはできない。

墓参りできなくなった理由が、当時ファンが押しかけて墓石を削る行為が横行したためというのだから、たまったもんじゃない。

 

先行研究者が情報の出し惜しみをしているのか、見落としたのか、はたまたそもそも書いていなかったのか。

過去帳に書いていなかったとしたら、母親がどこかで沖田家から脱落している可能性も出てくるのだが、これは今はおいておこう。

 

父が死去し、本来なら長男・総司が元服、跡目相続するべきところ、幼少のため相続できず、長姉のミツが婿・井上林太郎を迎え、その婿は沖田林太郎と名乗ったというのが通説である。

一見筋が通っているように見えるが…ひっかかる部分がある気もしている。

 

長くなりそうなので、また次回。(ごめん)

 

今日のまとめ

沖田家に関しては本当に謎が多い。

正解はこれでは?!と思っても、その先で別の情報との食い違いが出てしまって行き止まりという状態が続く。

 

いくら下級武士とはいっても、ここまで情報がぐちゃぐちゃな人も珍しい。 

 

次回は、一見筋が通っているようにみえる「沖田家の家督相続」について書こうと思う。