【新撰組・新選組】沖田総司の謎①(そもそも存在した?剣の腕前は?)

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帰蝶さまの話をもう1本書く予定なのですが、その前に。

 

www.yorimichiwakimichimawarimichi.com

 

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今ちょっとした作業で何度目かの調べ直しを行っている新選組

みんな大好き新選組。 

でも、虚構が多い存在って、ご存知ですか?ご存知ですよね?

それはなぜか。

すばらしい小説が存在するからです。

 

なにより、司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』の存在。

私も小学生時代に読みましたが、どんどん引き込まれる「土方歳三」の生き様。

文字だけであれだけ表現するのだから、やっぱり司馬遼太郎先生はすごい。

 

歴史小説家の大家といえば、池波正太郎先生も。(新選組は関係ないですが)

ネタ探しに『寛政重修諸家譜』を眺めていたとか、凄みがありすぎて震えがくる。

 

すばらしい歴史小説というのは、新選組に限らず、事実(史実)と虚構の境が非常に曖昧にできています。

しかもそれが大昔に有名になっていたとしたら。

いまだにそれを信じている人たちがいるんです。一定数以上。

今は様々な研究が進み、「否」もしくは、「これは創作である」と一定の支持を得ているエピソードなども、史実だと考えられてしまっています。

 

具体名は避けますが、ボランティアガイドの方が、延々と『燃えよ剣』の話を”史実”のように語っていたりする状態がちらほら見受けられるというのが、新選組界隈の現実。

(もちろん、ものすごく勉強してくださっているガイドさんもたくさんいらっしゃいます!)

 

これについては、思うところがたくさんあるんです。実は。

間違った情報を覚えている人が悪いわけではありません。

当時はそれが真実だと思われていたんです。

アップデートしていないのは些かまずいとは思いますが、悪じゃない。

同じように新選組が好きな仲間です。

情報のアップデートは必要ですが。

これについては、今度思いの丈をつらつら書きます。

 

 

数多ある情報の中で、おそらく三本の指に入る謎。

それが、「沖田総司」という人物。

 

今調べ直していることの備忘録として、書き記しておきたいと思います。

 

 

沖田総司って、そもそも存在したんですか?

寄せ集め集団でもある新選組は、謎の多い集団でもあります。

その中でも、出自からなにからなにかと謎の多い沖田総司

幹部として活躍した一面は有名ですが、描かれる際は、

「無邪気」「最強剣士」「みんなの弟」

的な立ち位置が多いかと思います。

 

ここまで謎が多いと、そもそも存在したかどうか自体が怪しいと思ってしまう。

私の悪い癖。

 

結論からお話しすると、「沖田総司」という人物は、確実に存在しました。

乙女の皆さん、ご安心を。

 

当たり前だろ!と思われるかもしれませんが、1つずつ検証していきます。

 

存在の証拠をいくつか挙げていきましょう。

数は限られていますがまずは「手紙」の存在。現存は7通だったかと思います。

有名なところだと、日野の佐藤彦五郎家に、山南敬助が亡くなったことを伝えている手紙が現存しています。

 

次に、名簿に名前があること。

浪士組結成時から名簿に名前があります。

 

極め付けは、新選組に所属し、御陵衛士として新選組を離脱した元新選組隊士・阿部十郎の話。明治32年(1899年)の『史談会速記録』で、沖田の言及があること。

 

簡略化はしてしまいましたが、彼が存在した証拠としては十分ではないでしょうか。

 

沖田総司の剣の腕前は?

 小説やマンガ、映像系、舞台で沖田総司が描かれる際、「天才剣士」と称されることがほとんどかと思います。

 

彼の剣の腕前を示す史料もいくつか存在します。

 

1つめ、小野路村・小島鹿之助が書き残した通称『小島日記』です。

文久2年(1862)7月15日にこう記述があります。

 

近藤勇先生門人沖田惣次郎殿、当十三日より道助方へ代稽古罷出られ居候処、是又麻疹体ニ付、門人佐十郎布田宿迄馬ニ而送行、症之軽重相分ず、此人剣術は晩年必名人ニ至る可き人也、故ニ我等深心配いたす」

 

出稽古先で麻疹に罹り、布田宿まで門人とともに向かったという内容です。

症状の重さがわからず心配する鹿之助が、思わず書いた言葉から、この当時から沖田の剣術はすごかったのがわかります。この文言が一つ目の証拠。

 

2つ目の証拠。

永倉新八が明治になって

 

土方歳三井上源三郎藤堂平助山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」

 

と語ります。

 

3つ目の証拠は、存在のところでも出てきた、阿部十郎の明治32年(1899年)の『史談会速記録』での証言。

 

沖田総司、是がマア勇の一弟子でなかなか能く使いました。其次は斉藤一と申します。それから是は派が違ひますけれども、永倉新八と云う者がおりました。此者は沖田よりはチト稽古が進んでいました。」

 

つまり、阿部十郎的には、

1番・永倉新八

2番・沖田総司

3番・斉藤一

この順で強いと捉えていたようです。

 

 このことから、道場ではもちろん、新選組として京都で活躍するようになってからも、沖田総司の剣の腕前は、集団の相当上の方にいたといっても過言ではないと思います。

 

●まとめ

当時、所謂「血生臭い仕事」なども担当しており、新選組の筆頭格だった沖田も”大活躍”していくわけですが、意外にも、人を斬ったのは京都に来てからだとか。

そりゃそうですよね。

町の貧乏道場にいて血みどろの事件に巻き込まれるなんてこと、まずないですものね。

 

京都に行って、人を斬るということに長けていく彼は、どう思っていたんでしょうね。

先人のあらゆる創作ですと、なにも気にせず無邪気…という姿で描かれますよね。

 

普段は近所の子供たちと遊んでいたりしたようなので、流行り言葉でいうところの「サイコパス」な人物だったんでしょうか。

ニコニコしている彼と、剣を持つと人が変わる二重人格?

(医学的には「多重人格」しかありえないそうなのですが、言葉の都合上「二重人格」としました)

苦しいことは飲み込んで表面には出さない、大人な人物だったかも。

 

 

長くなりそうなので、本日はここまで。

本題までたどり着かなかった。。。