【麒麟がくる】帰蝶って何者?②

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先日の記事の続きを書こう。

がんばれ、私。。。

戦国時代は正直あまり得意ではなく…始めてはみたもののヒーヒーいっている状態なのは、内緒。

 

信長に嫁いだ女性が、かつて土岐頼純に嫁いだ女性と同じ女性と仮定し、かつその女性を「濃姫」と記述することで話を進めようと思う。

 

 

結婚後の夫・織田信長

教科書に出てくるくらいの有名人で、「うつけ者」日本代表と言っても過言ではない織田信長

結婚すると落ち着く男性もいるが、彼にその枠がはまらないことは、多くの人が知っているだろう。

 

そもそも「うつけ者」=「大馬鹿者」と訳されるが、少し違う。

「うつけ」というのは「虚」や「空」などと書き、もともとは「からっぽ」という意味である。

それが転じて「ぼんやりしている様」やさらに「常識から外れた」という意味でも使われるようになった。奇妙な振る舞いをすることで「うつけ」と呼ばれることもあったという。

 

ということは、信長は「大馬鹿者」というより「奇妙な振る舞いをする者」として認識されていたのではないか。まさに奇行種。

 

想定外の動きをし、周囲の人間を振り回し、心身ともに疲弊させる男。

それが織田信長だったのではないか。

 

奇行種・信長の逸話として有名なのは、父・信秀の葬儀での振る舞いである。

天文18年(1549)に無事結婚した信長と濃姫だったが、その3年後の天文21年(1552)に父・織田信秀が死去する。

 

嫡男として、父の葬儀を恙無く進めなければならない立場の信長であったが、葬儀には遅刻、いつものだらしない姿で現れ、あまつさえ、父親の位牌に焼香用の抹香を投げつけたのである。

 

信長公記』にもその記述がある。

「信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。」

(信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴も履かず。仏前に出ると、抹香をかっと掴んで仏前へ投げかけて帰った。)

 

ちなみにこの時、弟はちゃんとしていたらしい。。。

「御舎弟勘十郎は折日高なる肩衣、袴めし候はて、あるべき如きの御沙汰なり」

(弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し、礼にかなったあるべき作法であった)

 

別の逸話では、夜な夜な寝所を抜け出て明け方に帰ってくる信長を、濃姫が問い詰めた際、「斎藤家に潜り込ませている自身のスパイが、道三を殺したら狼煙をあげる手筈になっているから確認しに行っている」と言ったという。

これを知った濃姫は、父・道三に手紙を出し、そのことを知った道三は、スパイをあぶり出し、殺害して事なきを得たーー。

この逸話については、後世の創作である可能性が高いといわれている。

 

理由は2つ。

まず、「この時期に齋藤家の家臣が殺された事実がどの史料にもないこと」。

そして、そもそも「信長の当時の居城・那古野城から、道三の居城・稲葉山城の狼煙はみえない」こと。

那古野城から稲葉山城まで、直線距離で約30km。

 

…東京を例に考えてみよう。

東京駅をスタート地点として、北に30km程度のところは埼玉県越谷市春日部市あたり。

南に30kmは東京湾海上、東30kmは千葉県千葉市花見川、西30kmは東京都国立市あたりとなる。

おそらく、なにをどうがんばっても、何も見えないだろう。

 

このことから、”夜な夜な寝所を〜”という逸話の信憑性は薄いと考えられる。

 

だからといって、信長が想定外の奇妙な振る舞いを続けていたということに変わりはなく、傅役の平手政秀を筆頭に、家臣はみな不安だっただろうと思う。 

 

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那古野城稲葉山城の直線距離

信長と、義父・道三 

信長が虎視眈々と道三の首を狙っていたーー

 

などという創作がつくられてしまう織田信長斎藤道三

一見相入れなさそうな印象を受ける超個性派の2人だが、果たしてその真相は?

 

舅と婿が仲が悪いというのは、間に立つ嫁にとって、それはそれは大変なことなのは想像に難くない。

(現代はどちらかというと、姑と嫁の間の婿という立場から、男性の方が覚えがあるかも…?)

 

では、本当に仲が悪かったのか。

仲が良くて大好き!俺たちマブダチ!などという史料はあるわけもないので、史実から探って堀を埋めていきたい。

 

信長と道三の直接会見

天文22年(1553)道三と信長は、直接会談の場を設ける。

大河ドラマでは先日放送された第14回「聖徳寺の会見」である。

 

4月下旬、道三から会見したいとの話を信長側に持ちかける。

会見したい理由は、婿・信長の器を見極めたかったからだという。

 

うつけ者と名高い信長を笑ってやろうと、あらゆる手段をとった道三は、町外れの小屋に隠れて信長の行列を覗き見し、いつも以上に奇妙な格好をした信長を目にすることとなる。

頭を抱えたことだろう。

大馬鹿者は真実だったのだと。

 

しかし、会見の場に現れた信長は、打って変わって長袴、小刀という正装であった。

 

会見を終えた道三は、「道三の息子たちは、いずれ信長の家臣となるだろう…」と、呟いたという。

このとき道三は「信長は只者ではない…」と感じたとか。

 

ちなみにこの話、信長の一次史料といわれ、こちらでも何度か名前を出して使用している『信長公記』から引っ張ってきた話だが、このエピソードは微妙に人名などが間違っていたりしており、真実かはわからない。(こんなんばっかりだ)

 

信長と道三の協力関係

天文23年(1554)、信秀亡き後、織田家がバラバラになりつつある今が狙いどきと、今川氏が尾張に侵攻。

今川は、尾張領内の南から侵攻し、周囲の城を降伏させながら、信長の居城・那古野城と、織田領地南方にある緒川城の間、村木村に領地を分断するような砦をつくる。(村木砦)

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緒川城と村木砦と那古野城


 

周囲の城が今川に降伏する中、緒川城を助けるには、村木砦を落とす必要がある。

しかし、そのために信長が出兵すると、居城の那古野城がガラ空きとなってしまう。

 

父親が亡くなってから、織田家内での味方にあまり恵まれていなかった信長は、義父・道三に援軍を依頼。

この依頼を受けた道三は、すぐに兵を派遣し、那古野城の守りを固めた。

 

いくら義父といえども、本拠地を他国の軍に守らせるというのは異例であり、このことからも、聖徳寺での会見以降、信長と道三の関係が、強固になっていたことがわかる。

2人の間を取り持っていたのは、他ならぬ濃姫の存在だったのではないか。

 

道三からの援軍によって背後(那古野城)を固めた信長は、熱田から海を渡り、緒川城に入城。鉄砲の使用により砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功した。

 

濃姫の父・斎藤道三の死

天文23年(1554)、婿・信長との関係は強固になっていた道三は、家督を息子・義龍に譲り、自身は出家する。(このときから「道三」と名乗る)

土岐氏の居城だった鷺山城で、隠居生活を始めようとしていた。

 

しかし、義龍が実の弟たちを次々に殺害。

一説には、父親から可愛がられていた弟たちが、いつか、自分に取って代わるのではないかと怖れたためともいわれているが、真相は本人にしかわからない。

(そもそも弟たちが道三から特別可愛がられていたかどうかがわからない。)

 

義龍のこの行いに道三は激怒し、挙兵。鶴山付近に布陣する。

道三の兵は約2,000人、義龍は、斎藤家の家臣団に支持されたこともあり、約12,000人の兵で対峙した。

 

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地図では出てこない鶴山の位置

圧倒的な兵力の差に死を覚悟した道三は、かの有名な「美濃一国譲り状」を残したと言われている。

(個人的には、多くの家臣が自分ではなく、義龍についたことも、道三はショックだったんじゃないかなと思っている。道三だって人間だもの。)

 

この「美濃一国譲り状」だが信憑性が曖昧であり、丸々信用して良いのかどうかがわからない代物である。江戸時代に作られたともいわれる。

(紙の年代調べたら一発じゃないかと思うんだが…安直かな?)

この書状の大まかな内容は「自分の死後、濃姫の婿・信長へ、美濃一国を譲る」というものである。

 

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵。

清洲城から出兵したものの、大良河原(現・岐阜県羽島市)で義龍軍により進軍を阻まれる。

援軍が断たれた道三の劣勢は変わらず、首を落とされることとなる。

弘治2年(1556)の出来事であった。

 

桶狭間の戦い〜美濃獲得

永禄3年(1560)、かの有名な「桶狭間の戦い」が勃発。

永禄5年(1562)、信長は、今川氏から独立しようと画策していた三河国徳川家康と同盟を結ぶ。(清州同盟)

三河との同盟締結により、信長はいよいよ美濃攻めに乗り出す。

 

信長にとっての義父・道三の首をとった道三の息子・義龍は、永禄4年(1561)に病死している。義龍亡き後、美濃は、義龍の息子・龍興が治めていた。このとき14歳。

14歳の若き領主に、もしかしたら不安を覚える家臣は少なくなかったのかもしれない。

なにせ美濃は、周囲の武将たちが皆狙う要所。

 

信長はまず調略により斎藤家の重臣を味方につけ、永禄10年(1567)、稲葉城を攻め落とし、美濃を手に入れることとなる。

稲葉山城に入城した信長は城の名前を「岐阜城」と改め、この城を天下取りの拠点とした。

 

余談だが、この「岐阜城」という名前。

尾張の禅僧が、中国の故事から考え、進言した3案の中から信長が選んだといわれている。

…「義父の城」で「ぎふじょう(岐阜城)」だったら熱いな…という独り言。

(そもそも「義父」という概念は当時からあったのか…?)

 

この時期の濃姫の動向

父の死を知った濃姫は、父の死を悲しみ、肖像画を描かせ、美濃・斎藤家の菩提寺・常在寺に納めさせたといわれている。絹本着色斎藤道三像

 

今日のまとめと次の予告

歴史の表舞台からは完全に姿を消している濃姫

しかし、父と夫との関係、父の死などを通して、存在を感じることもできる。

 

次回は、父亡き後、織田家での濃姫の動向を探っていきたい。

 

お題「#おうち時間

#麒麟がくる #濃姫 #帰蝶 #織田信長 #斎藤道三 #明智光秀