八重の桜2(奥羽越列藩同盟と二本松少年隊)

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八重の桜ブログ2回目です。



前回の長い長いブログから2週間経ちました。

2回分の放送が終わったということですね。




大まかな感想は…



良 順 先 生 は ? !



って感じです(笑)


そのことは後で話すとして。



前回のブログの直後(というかその日)の放送は
会津を救え』
でした。


東北一帯が戦乱に巻き込まれていく経過が描かれていました。


奥州鎮撫総督府は仙台に乗り込み「会津を攻撃せよ」という命令を下します。



奥州一帯は当初恭順の姿勢を貫いており、新政府側でした。

新政府軍が討ちたかったのは会津藩庄内藩です。


両藩とも幕府の中で重要な位置をしめていたこと、そして会津藩には新撰組庄内藩には新徴組という強力な警察組織が存在し、
新政府軍、特に長州は辛酸をなめさせられていたことが大きく影響していると思われます。

(ちゃんと調べられていないので、「思われます」という言葉で濁しています…)



仙台藩米沢藩をはじめとする東北諸藩は、会津に恭順を勧めると同時に、奥州鎮撫総督府会津征討をやめるよう嘆願します。
この辺りで奥羽越列藩同盟結成…でしたっけ…?


結局嘆願は握りつぶされてしまうんですが。。。



会津征討を推し進めていたのが長州藩士・世良修蔵でした。

小沢仁志さんが良い味出してました(笑)

Vシネのヒーロー!現在メシバナにも出ていますねー。

若干悪すぎる気がしなくもないですが。



世良修蔵は大河の通り、断固として会津征討を主張します。

そして、大山格之助宛の密書の中で

”奥羽はみな敵である。武力を以て一掃せよ”

と書いて届けさせようとします。



この密書を手に入れて、読んだ仙台藩士たちは激昂して世良暗殺を計画・実行してしまいます。

この辺りは大河でもなかなか丁寧に描いていました。



違うところが1カ所。

宿泊していた旅籠で襲われた世良は短銃で反撃しながら2階から飛び降り、重傷を負います。

そのまま捕らえられ、その日のうちに阿武隈川で処刑されます。

これが史実ですね。



ドラマの中ではイメージ映像みたいな感じでしたね。

ま、ここはいいんですよ、別に。

結局はその日のうちに亡くなるんですから。



この世良暗殺によって、奥州一円は新政府軍に完全に盾を突いた形になり、各藩戦争に突入していくわけです。



世良の密書ですが、違う解釈もあり、仙台藩早とちり説もあるらしいです。

みんな殺気立ってますからね。


私が『会津を救え』の回を見ていて「ん?」と思ったのは、長岡藩の奥羽越列藩同盟への参加表明が早くないか?ということです。

強大な長岡藩がもっと早く奥羽越列藩同盟に参加していれば、戦況は変わっていたのではと言われるくらい、長岡藩は最後の最後まで参加を迷うんです。
恭順して領土を守るのか、戦争に突入して同盟の絆を守るのか。
長岡藩は真っ二つに意見がわかれ(長岡藩に限ったことではないですが)、奥羽越列藩同盟への参加が遅れます。

ドラマでは河井継之助がニコニコしながら力強く奥羽越列藩同盟への参加を表明していました。
ちゃんと調べていないので、迂闊なことはいえないのですが、長岡藩の奥羽越列藩同盟参加表明は、長岡藩が戦争に巻き込まれることがほぼ決まってしまってからだったと思います。

そして、白河口の戦いです。
白河の関
かの松尾芭蕉も詠んだ、東北と江戸を結ぶ奥州街道の超重要拠点です。
全部で7回大きな戦闘がありますが、結局新政府軍から奪還できずに終わります。

会津藩は海なし藩です。
主要街道を抑えられると支援物資・人員等々が滞ります。
そこで重要なのが長岡藩の新潟港です。
海上から色々運び込もうと。

大河ドラマの中でもありましたね。
確か、『二本松少年隊の悲劇』の中で、火薬の調合をしている山川健次郎が家老の萱野権兵衛に、硝石の産地から新潟港を使って運べないかと相談するシーンでした。

この戦争で重要なのは、新政府軍は先手先手に進んでくるのに、守る側(同盟軍)は後手後手に回ってしまうということ。

北越戦争において、長岡藩領は戦火に巻き込まれて、宰相・河井継之助は戦死、長岡藩は落城します。
そして、新潟港を抑えられた会津藩は大変なことになっていくわけです。
ただ、この話は大河ドラマではまだですね。
書くかもしれないから黙っときましょう。


さてさて。
お楽しみの(?)『二本松少年隊の悲劇』です。

こちらも感想を述べさせていただけるなら…

薄 っ ! !

思っていた以上に薄味に仕上がっていました。。。
ちょっと期待はずれかな。

二本松少年隊の悲劇”という割には最後10分くらい。
そしてあまりにもあっけない終わり。
実際は結構がんばったんです。

二本松少年隊”という名前は後世につけられたものです。
大正時代になってからだったかな。

彼らは無名の戦闘員だったわけです。
兵隊として組織されていない、志願兵の集まり。

少年兵といえば会津藩の白虎隊が有名ですが、彼らは会津藩の軍政改革によって誕生した予備兵です。
白虎隊と二本松少年隊の違いは結構あるんですが、年少の兵隊組織として一緒くたに語られることが多いのも事実です。

まず、二本松藩について。
二本松藩というのは、猪苗代湖を挟んで会津藩安達太良山を挟んで仙台藩があるという、超弱小藩です。
今も二本松市という名前が残っています。
はした金に目がくらんだ、くだらない市町村合併とかで名前をなくすことがないようにしていただきたい!というのは私の心の声です(笑)
大丈夫だとは思いますが。

江戸時代通してみても、ずっと弱小。
大きな出来事もなく、平和な藩だったと思いますよ。
それが突如戦争の真っ只中に立たされるわけです。

自藩の両側が、東北の雄藩。
言葉を選ばなければ、雄藩の顔色を伺いながら上手いことやってきた藩だったのだと思います。

そんな二本松藩には「危急の際は実年齢に2歳上乗せした年齢で戦闘に参加することができる」という約束事があったらしいです。
…が、なぜそんな決まり事があったのかは謎ですし、いつからあったのかも調べていませんし、本当にあったのかも調べていないのでわかりません。
誰か私に史料を読む時間をくれぃ…。

この約束事によって、12歳の少年も戦闘に参加することができるようになってしまったのです。

当時は数え年なので、現代に置き換えるとするとマイナス1歳~2歳と考えるのが妥当です。
つまり、現代の感覚でいうと10歳くらいの子供が最前線に立ってしまったということになります。

ちなみに、白虎隊は年齢制限があり、16歳・17歳の武家の男子で構成されました。
15歳だったのに年齢を偽って(生年月日を改めて16歳とし)入隊した人もいたそうです。


いざ戦争!となった時、二本松藩