【新撰組・新選組】沖田総司の謎②(家族との関係)

前回の続き。 

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前回は、「そんなことわかりきっていることだろう!」とお叱りを受けそうな内容を羅列しまくってしまったので、今回はもう少し踏み込んでみようと思う。

 

京都で活躍した新選組

その一番隊を率いた沖田総司だが、謎が多い人物であることは、前回も述べたところだ。

沖田は、江戸にいた頃(浪士組参加前)までが一番謎が多い。

不思議なことではない。

要は、「まだ何者でもなかった」からである。

 

創作では、様々に描ける”美味しい部分”ではあるが、少し紐解いてみたい。

 

 

沖田総司の出自

陸奥国白河藩藩士江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭・沖田勝次郎の息子(長男)として、江戸白河藩屋敷で生まれたとされる。(Wikipediaより)

 

身分・家柄

新選組自体は、トップが農家の出身だったりと、身分の垣根があまり高くないことで知られているが、そうはいっても時は江戸時代。

現代では考えられないような、「身分による行動の可不可」が厳然と存在した時代である。

 

では、沖田総司の身分はどうだったのであろう。

 

上記のWikipedia引用にもあるように、陸奥国白河藩藩士ということは、武士の身分の家柄であったことがわかる。

島田魁が書き残した『英名録』にも「陸奥白川」と記載があることからも、沖田家が白河藩の武士だったのは、ほぼ間違いないだろう。

 

足軽小頭ってなに?

Wikipediaの中の「足軽小頭」。

戦国時代、足軽は意味のある役職であったが、戦乱のない江戸時代では、あまり意味をなさない役職である。

武士の中でもかなり下の存在で、便利な言葉でいうと、「下級武士」となる。

幕末になるとまた違う意味合いを持たせる藩が出てくる足軽だが、平時は最下層グループである。

 

同じ最下層グループには「中間・小者」などもあるが、明確な違いは、大小の帯刀・羽織りが許されていたのは「足軽」までだということである。そして長屋に住めたのも足軽までである。

つまり「足軽」は、武士の中の下の上程度のクラスであった。

足軽小頭ということは、1つの足軽グループの長であったということになる。

現代風に会社に言い換えると…主任といったところか。(平足軽が一般社員として)

 

足軽小頭の上には、足軽大将がおり、足軽小頭を通し、いくつかの足軽グループをまとめていた。

 

江戸時代の足軽という立場は調べ甲斐がありそうなのだが、ここは一旦見なかったふりをしたい。(やり始めたらたぶん終わらない)

 

つまり、沖田家は、最下層の武士の家柄であったが、帯刀と、羽織りが許されていたのではないかということがわかった。藩の長屋にも居住できる立場でもあった。

 

墓所

早速お墓の話で申し訳ないのだが、沖田総司の墓は麻布の専称寺というところである。

一般の墓参は禁止の場所なので、おいそれとはお参りできない。

 

普通墓参りはそんなものだろうと私は思うのだが、偉人の墓参りを趣味とする方もいらっしゃるそうなので、世の中の趣味は深いなと思う。

 

専称寺というお寺は、沖田家の菩提寺であり、沖田家の人々について書かれた過去帳も存在する。もちろん過去帳も閲覧不可だ。

というか、普通のお寺なので、外部の人間に見せるものではないというのを徹底されているのがすばらしいと思う。

過去帳は現代でいうところの戸籍帳、いわゆる個人情報の塊である。

閲覧不可は当たり前。

なので、「かつてみた」という先行研究者の言葉を信じるしかない。

 

この専称寺六本木ヒルズを麻布の方にいったところにあるのだが、江戸時代、そのあたりは白河藩下屋敷があり、そのすぐ近くに専称寺があるという地理になる。

つまり、状況証拠だけみても、彼が白河藩士の子息として生まれたということが、疑いようのないものであることがわかる。

 

生まれた年月日

沖田総司謎の1つ。生まれ年である。

昔から2つの説があり、創作する人の好みによって使い分けられてきた。

 

一方は、『沖田家文書』と呼ばれる文書にある、亡くなったと記載される年齢からの逆算(天保13年生まれ説)、もう一方は、浪士組募集時に作成された『浪士姓名簿』の年齢からの逆算(天保15年生まれ説)である。

 

『沖田家文書』と『浪士姓名簿』。どちらがより信用できる史料なのか…という問題なのだが、一旦保留とする。

 

ちなみに、生まれた月日は不明である。夏の頃だったという話がある。

当時、生まれた月日なんていうものはさして重要視はされない。 

「誕生日」などという概念がそもそも薄い。

 

理由は簡単。

生まれた年を1歳とし、1月1日にみな年をとる数え年だからだ。

残酷なのは、12月31日に生まれた子供で、翌日の1月1日には+1歳される。

生まれて2日で2歳になるのだ。すごいだろ。

 

家族構成

生き物には、みな等しく父と母がいる。

もちろん沖田総司にも。

 

父はWikipediaの引用にあった沖田勝次郎。

…かどうか、実は確定情報ではないのだが、一旦彼で仮定しておく。

母は、出自・生没年等不明である。

多摩出身で、井上家の親戚筋だったという話もある。

 

こちらに、ミツ、キンという有名な姉が2人。

そして総司。(本来は宗次郎だが、便宜上「総司」で統一する)

 

父は、専称寺過去帳によると、「弘化二年(1845)」に亡くなっている。

母は、先ほども書いたように、没年不明である。

 

母の記載については、普通、婚姻関係が続いていればの話だが、亡くなったことくらい過去帳や墓石に書いてあるんじゃないだろうか…と思っている。

 

過去帳も墓石も、先ほども言ったようにそうそう見ることはできない。

墓参りできなくなった理由が、当時ファンが押しかけて墓石を削る行為が横行したためというのだから、たまったもんじゃない。

 

先行研究者が情報の出し惜しみをしているのか、見落としたのか、はたまたそもそも書いていなかったのか。

過去帳に書いていなかったとしたら、母親がどこかで沖田家から脱落している可能性も出てくるのだが、これは今はおいておこう。

 

父が死去し、本来なら長男・総司が元服、跡目相続するべきところ、幼少のため相続できず、長姉のミツが婿・井上林太郎を迎え、その婿は沖田林太郎と名乗ったというのが通説である。

一見筋が通っているように見えるが…ひっかかる部分がある気もしている。

 

長くなりそうなので、また次回。(ごめん)

 

今日のまとめ

沖田家に関しては本当に謎が多い。

正解はこれでは?!と思っても、その先で別の情報との食い違いが出てしまって行き止まりという状態が続く。

 

いくら下級武士とはいっても、ここまで情報がぐちゃぐちゃな人も珍しい。 

 

次回は、一見筋が通っているようにみえる「沖田家の家督相続」について書こうと思う。

THE JINRO ステージにみる、イケメン界隈の闇

新感覚!スペクタクルステージ『THE JINRO イケメン人狼アイドルは誰だ!!』

というステージが、コロナクラスターを起こしたことが日々ニュースになっている。

 

あれだけ注意しろと再三再四、口を酸っぱくして言われていたにもかかわらず、あまりにも杜撰な運営の仕方が次々と暴露されている事態。

 

これ関係の記事で常に顔写真が使われる「山本裕典」と「有村昆」はかわいそうだなぁとは思いつつも、体調不良者が出ている中、プロデューサー、演出、制作の誰も止めなかった異様さに、正直溜息ものだったりする。

 

あんなもの舞台でもなんでもない!

 

という意見はまぁ置いておこう。

そこは人それぞれだ。

 

ちなみに私は仕事柄この手のも含め有象無象の舞台を観に行っているが、こういった舞台は、いわゆる「2.5」ともまた少し違う。

2.5には明確な定義があるので、そこの枠からは外れた「ステージ」である。

 

これは余談の上に個人的感想だが、私の経験上、舞台のタイトル以外に無駄な装飾語が様式美の如くつけられた舞台は、終演後「?????」という気持ちでいっぱいになることが多い。

青春ラブストーリー映画の予告で、走って叫んでいるシーンがある映画はハズレというあれと似たような、私なりの格言である。

……参考にされたし。

 

制作は、普段韓流アイドルのイベントなどを制作している会社。

実績をみても、「舞台」というより「イベント」を制作している会社とみるのが正しいのだと思う。

 

あの手のステージを制作する際の手順はおそらく2つ。

①脚本家や演出家が出したテーマやストーリーに惹かれてぜひやろう!と、制作が動く場合

②面白そうな原作があるから舞台化したいと、制作が動く場合

③舞台をやりたい・やらせたいタレントがいて、このタレントで何かできないかと事務所主導で動く場合

 

である。

ちなみに2.5と呼ばれる舞台は、往々にして②になるだろう。

 

今回のステージは、観ていない分際でとやかく言うのは失礼だとは思いつつ、③ではないかと推測する。

要は、制作側も「金になるから動く」という部分があったのではないか。

何があっても、「上演しない」という選択肢は、最初からなかったのではないか。

 

 

起きてしまったことはもうしかたない。

時間は戻らないし、罹患した人たちの健康もしばらく戻らない人もいるだろう。

そして、反省だけなら猿でもできる。

 

今、制作がやらなければならないことは、包み隠さずすべてを話すことだ。

 

緊急事態宣言が明けて、おっかなびっくりではあるが、エンタメの現場はすでに動いている。

現場ではありとあらゆる対策をとっているのだ。

しかし、どんなに対策しても、それが正解かどうかはわからないのだ。

 

だからこそ、

稽古はリモートだったのかとか

対面だけどマスクをしていたのかいなかったのかとか

マスク+フェイスシールドもしていたのかいなかったのかとか

本番はどうやってお客様を入れて

どんな形で観劇してもらったのかとか

演者はどのようにステージに立っていたのかとか

そういったありとあらゆることを制作が詳かにすることが、演劇界、エンタメ界へのせめてもの償いだと思う。

 

今は、観劇していたと思しきお客様が、こんな感じだった、あんな感じだったとバラバラとお話ししている状態で、いやそうじゃなかったという方も中にはいる。

制作が発表した情報とは違う情報も出始めている。

 

もし、保身から真実を出し渋っているのだとしたら、ぜひエンタメからは身を引いてほしい。

エンタメは、今どこも死に体だ。

正解を、みんなが手探りで探している状態なのだ。

そこに協力できないのなら、廃業一択だ。

 

どうか、詳かにしてくれることを願う。

【新撰組・新選組】沖田総司の謎①(そもそも存在した?剣の腕前は?)

帰蝶さまの話をもう1本書く予定なのですが、その前に。

 

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今ちょっとした作業で何度目かの調べ直しを行っている新選組

みんな大好き新選組。 

でも、虚構が多い存在って、ご存知ですか?ご存知ですよね?

それはなぜか。

すばらしい小説が存在するからです。

 

なにより、司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』の存在。

私も小学生時代に読みましたが、どんどん引き込まれる「土方歳三」の生き様。

文字だけであれだけ表現するのだから、やっぱり司馬遼太郎先生はすごい。

 

歴史小説家の大家といえば、池波正太郎先生も。(新選組は関係ないですが)

ネタ探しに『寛政重修諸家譜』を眺めていたとか、凄みがありすぎて震えがくる。

 

すばらしい歴史小説というのは、新選組に限らず、事実(史実)と虚構の境が非常に曖昧にできています。

しかもそれが大昔に有名になっていたとしたら。

いまだにそれを信じている人たちがいるんです。一定数以上。

今は様々な研究が進み、「否」もしくは、「これは創作である」と一定の支持を得ているエピソードなども、史実だと考えられてしまっています。

 

具体名は避けますが、ボランティアガイドの方が、延々と『燃えよ剣』の話を”史実”のように語っていたりする状態がちらほら見受けられるというのが、新選組界隈の現実。

(もちろん、ものすごく勉強してくださっているガイドさんもたくさんいらっしゃいます!)

 

これについては、思うところがたくさんあるんです。実は。

間違った情報を覚えている人が悪いわけではありません。

当時はそれが真実だと思われていたんです。

アップデートしていないのは些かまずいとは思いますが、悪じゃない。

同じように新選組が好きな仲間です。

情報のアップデートは必要ですが。

これについては、今度思いの丈をつらつら書きます。

 

 

数多ある情報の中で、おそらく三本の指に入る謎。

それが、「沖田総司」という人物。

 

今調べ直していることの備忘録として、書き記しておきたいと思います。

 

 

沖田総司って、そもそも存在したんですか?

寄せ集め集団でもある新選組は、謎の多い集団でもあります。

その中でも、出自からなにからなにかと謎の多い沖田総司

幹部として活躍した一面は有名ですが、描かれる際は、

「無邪気」「最強剣士」「みんなの弟」

的な立ち位置が多いかと思います。

 

ここまで謎が多いと、そもそも存在したかどうか自体が怪しいと思ってしまう。

私の悪い癖。

 

結論からお話しすると、「沖田総司」という人物は、確実に存在しました。

乙女の皆さん、ご安心を。

 

当たり前だろ!と思われるかもしれませんが、1つずつ検証していきます。

 

存在の証拠をいくつか挙げていきましょう。

数は限られていますがまずは「手紙」の存在。現存は7通だったかと思います。

有名なところだと、日野の佐藤彦五郎家に、山南敬助が亡くなったことを伝えている手紙が現存しています。

 

次に、名簿に名前があること。

浪士組結成時から名簿に名前があります。

 

極め付けは、新選組に所属し、御陵衛士として新選組を離脱した元新選組隊士・阿部十郎の話。明治32年(1899年)の『史談会速記録』で、沖田の言及があること。

 

簡略化はしてしまいましたが、彼が存在した証拠としては十分ではないでしょうか。

 

沖田総司の剣の腕前は?

 小説やマンガ、映像系、舞台で沖田総司が描かれる際、「天才剣士」と称されることがほとんどかと思います。

 

彼の剣の腕前を示す史料もいくつか存在します。

 

1つめ、小野路村・小島鹿之助が書き残した通称『小島日記』です。

文久2年(1862)7月15日にこう記述があります。

 

近藤勇先生門人沖田惣次郎殿、当十三日より道助方へ代稽古罷出られ居候処、是又麻疹体ニ付、門人佐十郎布田宿迄馬ニ而送行、症之軽重相分ず、此人剣術は晩年必名人ニ至る可き人也、故ニ我等深心配いたす」

 

出稽古先で麻疹に罹り、布田宿まで門人とともに向かったという内容です。

症状の重さがわからず心配する鹿之助が、思わず書いた言葉から、この当時から沖田の剣術はすごかったのがわかります。この文言が一つ目の証拠。

 

2つ目の証拠。

永倉新八が明治になって

 

土方歳三井上源三郎藤堂平助山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」

 

と語ります。

 

3つ目の証拠は、存在のところでも出てきた、阿部十郎の明治32年(1899年)の『史談会速記録』での証言。

 

沖田総司、是がマア勇の一弟子でなかなか能く使いました。其次は斉藤一と申します。それから是は派が違ひますけれども、永倉新八と云う者がおりました。此者は沖田よりはチト稽古が進んでいました。」

 

つまり、阿部十郎的には、

1番・永倉新八

2番・沖田総司

3番・斉藤一

この順で強いと捉えていたようです。

 

 このことから、道場ではもちろん、新選組として京都で活躍するようになってからも、沖田総司の剣の腕前は、集団の相当上の方にいたといっても過言ではないと思います。

 

●まとめ

当時、所謂「血生臭い仕事」なども担当しており、新選組の筆頭格だった沖田も”大活躍”していくわけですが、意外にも、人を斬ったのは京都に来てからだとか。

そりゃそうですよね。

町の貧乏道場にいて血みどろの事件に巻き込まれるなんてこと、まずないですものね。

 

京都に行って、人を斬るということに長けていく彼は、どう思っていたんでしょうね。

先人のあらゆる創作ですと、なにも気にせず無邪気…という姿で描かれますよね。

 

普段は近所の子供たちと遊んでいたりしたようなので、流行り言葉でいうところの「サイコパス」な人物だったんでしょうか。

ニコニコしている彼と、剣を持つと人が変わる二重人格?

(医学的には「多重人格」しかありえないそうなのですが、言葉の都合上「二重人格」としました)

苦しいことは飲み込んで表面には出さない、大人な人物だったかも。

 

 

長くなりそうなので、本日はここまで。

本題までたどり着かなかった。。。

【麒麟がくる】濃姫って何者?②

先日の記事の続きを書こう。

がんばれ、私。。。

戦国時代は正直あまり得意ではなく…始めてはみたもののヒーヒーいっている状態なのは、内緒。

 

信長に嫁いだ女性が、かつて土岐頼純に嫁いだ女性と同じ女性と仮定し、かつその女性を「濃姫」と記述することで話を進めようと思う。

 

 

結婚後の夫・織田信長

教科書に出てくるくらいの有名人で、「うつけ者」日本代表と言っても過言ではない織田信長

結婚すると落ち着く男性もいるが、彼にその枠がはまらないことは、多くの人が知っているだろう。

 

そもそも「うつけ者」=「大馬鹿者」と訳されるが、少し違う。

「うつけ」というのは「虚」や「空」などと書き、もともとは「からっぽ」という意味である。

それが転じて「ぼんやりしている様」やさらに「常識から外れた」という意味でも使われるようになった。奇妙な振る舞いをすることで「うつけ」と呼ばれることもあったという。

 

ということは、信長は「大馬鹿者」というより「奇妙な振る舞いをする者」として認識されていたのではないか。まさに奇行種。

 

想定外の動きをし、周囲の人間を振り回し、心身ともに疲弊させる男。

それが織田信長だったのではないか。

 

奇行種・信長の逸話として有名なのは、父・信秀の葬儀での振る舞いである。

天文18年(1549)に無事結婚した信長と濃姫だったが、その3年後の天文21年(1552)に父・織田信秀が死去する。

 

嫡男として、父の葬儀を恙無く進めなければならない立場の信長であったが、葬儀には遅刻、いつものだらしない姿で現れ、あまつさえ、父親の位牌に焼香用の抹香を投げつけたのである。

 

信長公記』にもその記述がある。

「信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。」

(信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴も履かず。仏前に出ると、抹香をかっと掴んで仏前へ投げかけて帰った。)

 

ちなみにこの時、弟はちゃんとしていたらしい。。。

「御舎弟勘十郎は折日高なる肩衣、袴めし候はて、あるべき如きの御沙汰なり」

(弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し、礼にかなったあるべき作法であった)

 

別の逸話では、夜な夜な寝所を抜け出て明け方に帰ってくる信長を、濃姫が問い詰めた際、「斎藤家に潜り込ませている自身のスパイが、道三を殺したら狼煙をあげる手筈になっているから確認しに行っている」と言ったという。

これを知った濃姫は、父・道三に手紙を出し、そのことを知った道三は、スパイをあぶり出し、殺害して事なきを得たーー。

この逸話については、後世の創作である可能性が高いといわれている。

 

理由は2つ。

まず、「この時期に齋藤家の家臣が殺された事実がどの史料にもないこと」。

そして、そもそも「信長の当時の居城・那古野城から、道三の居城・稲葉山城の狼煙はみえない」こと。

那古野城から稲葉山城まで、直線距離で約30km。

 

…東京を例に考えてみよう。

東京駅をスタート地点として、北に30km程度のところは埼玉県越谷市春日部市あたり。

南に30kmは東京湾海上、東30kmは千葉県千葉市花見川、西30kmは東京都国立市あたりとなる。

おそらく、なにをどうがんばっても、何も見えないだろう。

 

このことから、”夜な夜な寝所を〜”という逸話の信憑性は薄いと考えられる。

 

だからといって、信長が想定外の奇妙な振る舞いを続けていたということに変わりはなく、傅役の平手政秀を筆頭に、家臣はみな不安だっただろうと思う。 

 

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那古野城稲葉山城の直線距離

信長と、義父・道三 

信長が虎視眈々と道三の首を狙っていたーー

 

などという創作がつくられてしまう織田信長斎藤道三

一見相入れなさそうな印象を受ける超個性派の2人だが、果たしてその真相は?

 

舅と婿が仲が悪いというのは、間に立つ嫁にとって、それはそれは大変なことなのは想像に難くない。

(現代はどちらかというと、姑と嫁の間の婿という立場から、男性の方が覚えがあるかも…?)

 

では、本当に仲が悪かったのか。

仲が良くて大好き!俺たちマブダチ!などという史料はあるわけもないので、史実から探って堀を埋めていきたい。

 

信長と道三の直接会見

天文22年(1553)道三と信長は、直接会談の場を設ける。

大河ドラマでは先日放送された第14回「聖徳寺の会見」である。

 

4月下旬、道三から会見したいとの話を信長側に持ちかける。

会見したい理由は、婿・信長の器を見極めたかったからだという。

 

うつけ者と名高い信長を笑ってやろうと、あらゆる手段をとった道三は、町外れの小屋に隠れて信長の行列を覗き見し、いつも以上に奇妙な格好をした信長を目にすることとなる。

頭を抱えたことだろう。

大馬鹿者は真実だったのだと。

 

しかし、会見の場に現れた信長は、打って変わって長袴、小刀という正装であった。

 

会見を終えた道三は、「道三の息子たちは、いずれ信長の家臣となるだろう…」と、呟いたという。

このとき道三は「信長は只者ではない…」と感じたとか。

 

ちなみにこの話、信長の一次史料といわれ、こちらでも何度か名前を出して使用している『信長公記』から引っ張ってきた話だが、このエピソードは微妙に人名などが間違っていたりしており、真実かはわからない。(こんなんばっかりだ)

 

信長と道三の協力関係

天文23年(1554)、信秀亡き後、織田家がバラバラになりつつある今が狙いどきと、今川氏が尾張に侵攻。

今川は、尾張領内の南から侵攻し、周囲の城を降伏させながら、信長の居城・那古野城と、織田領地南方にある緒川城の間、村木村に領地を分断するような砦をつくる。(村木砦)

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緒川城と村木砦と那古野城


 

周囲の城が今川に降伏する中、緒川城を助けるには、村木砦を落とす必要がある。

しかし、そのために信長が出兵すると、居城の那古野城がガラ空きとなってしまう。

 

父親が亡くなってから、織田家内での味方にあまり恵まれていなかった信長は、義父・道三に援軍を依頼。

この依頼を受けた道三は、すぐに兵を派遣し、那古野城の守りを固めた。

 

いくら義父といえども、本拠地を他国の軍に守らせるというのは異例であり、このことからも、聖徳寺での会見以降、信長と道三の関係が、強固になっていたことがわかる。

2人の間を取り持っていたのは、他ならぬ濃姫の存在だったのではないか。

 

道三からの援軍によって背後(那古野城)を固めた信長は、熱田から海を渡り、緒川城に入城。鉄砲の使用により砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功した。

 

濃姫の父・斎藤道三の死

天文23年(1554)、婿・信長との関係は強固になっていた道三は、家督を息子・義龍に譲り、自身は出家する。(このときから「道三」と名乗る)

土岐氏の居城だった鷺山城で、隠居生活を始めようとしていた。

 

しかし、義龍が実の弟たちを次々に殺害。

一説には、父親から可愛がられていた弟たちが、いつか、自分に取って代わるのではないかと怖れたためともいわれているが、真相は本人にしかわからない。

(そもそも弟たちが道三から特別可愛がられていたかどうかがわからない。)

 

義龍のこの行いに道三は激怒し、挙兵。鶴山付近に布陣する。

道三の兵は約2,000人、義龍は、斎藤家の家臣団に支持されたこともあり、約12,000人の兵で対峙した。

 

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地図では出てこない鶴山の位置

圧倒的な兵力の差に死を覚悟した道三は、かの有名な「美濃一国譲り状」を残したと言われている。

(個人的には、多くの家臣が自分ではなく、義龍についたことも、道三はショックだったんじゃないかなと思っている。道三だって人間だもの。)

 

この「美濃一国譲り状」だが信憑性が曖昧であり、丸々信用して良いのかどうかがわからない代物である。江戸時代に作られたともいわれる。

(紙の年代調べたら一発じゃないかと思うんだが…安直かな?)

この書状の大まかな内容は「自分の死後、濃姫の婿・信長へ、美濃一国を譲る」というものである。

 

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵。

清洲城から出兵したものの、大良河原(現・岐阜県羽島市)で義龍軍により進軍を阻まれる。

援軍が断たれた道三の劣勢は変わらず、首を落とされることとなる。

弘治2年(1556)の出来事であった。

 

桶狭間の戦い〜美濃獲得

永禄3年(1560)、かの有名な「桶狭間の戦い」が勃発。

永禄5年(1562)、信長は、今川氏から独立しようと画策していた三河国徳川家康と同盟を結ぶ。(清州同盟)

三河との同盟締結により、信長はいよいよ美濃攻めに乗り出す。

 

信長にとっての義父・道三の首をとった道三の息子・義龍は、永禄4年(1561)に病死している。義龍亡き後、美濃は、義龍の息子・龍興が治めていた。このとき14歳。

14歳の若き領主に、もしかしたら不安を覚える家臣は少なくなかったのかもしれない。

なにせ美濃は、周囲の武将たちが皆狙う要所。

 

信長はまず調略により斎藤家の重臣を味方につけ、永禄10年(1567)、稲葉城を攻め落とし、美濃を手に入れることとなる。

稲葉山城に入城した信長は城の名前を「岐阜城」と改め、この城を天下取りの拠点とした。

 

余談だが、この「岐阜城」という名前。

尾張の禅僧が、中国の故事から考え、進言した3案の中から信長が選んだといわれている。

…「義父の城」で「ぎふじょう(岐阜城)」だったら熱いな…という独り言。

(そもそも「義父」という概念は当時からあったのか…?)

 

この時期の濃姫の動向

父の死を知った濃姫は、父の死を悲しみ、肖像画を描かせ、美濃・斎藤家の菩提寺・常在寺に納めさせたといわれている。絹本着色斎藤道三像

 

今日のまとめと次の予告

歴史の表舞台からは完全に姿を消している濃姫

しかし、父と夫との関係、父の死などを通して、存在を感じることもできる。

 

次回は、父亡き後、織田家での濃姫の動向を探っていきたい。

 

お題「#おうち時間

#麒麟がくる #濃姫 #帰蝶 #織田信長 #斎藤道三 #明智光秀

【麒麟がくる】濃姫って何者?①

大変な時代になった。

よく「戦時と同じ」などといわれるこのコロナ禍。

 

こんなときに大活躍するのはいわゆる「理系」の方々で、我々「文系」、特に語学と無関係の人間は、本当に役に立たない。

びっくりするほど役立たず。

歴史家なんてものも、有事ではさっぱり。

歴史家が役に立つのは全てが終わってから。まとめ、記録として残したことを伝えていくのみ。

その残した記録が役に立つのかどうかは、後世の人たちによる。

(シュレッダーされたら泣くね…)

 

そ こ で ! !

STAY HOMEを実行する、多くの優しい人たちに、暇つぶしコンテンツを提供する程度のことはできるのではと思い立ち、今年の大河ドラマ麒麟がくる』から、「濃姫」のお話を少し。

 

 

名前の謎〜帰蝶?胡蝶?濃姫

大河ドラマでは、放送開始前から大騒動があったこの役。

女優の川口春奈さんが演じ、ドラマ内では「帰蝶」と呼ばれている。

 

実はこの帰蝶、本当の名前は不明である。

 

彼女の名前に言及した史料はほぼないといっても過言ではない。

 

『絵本太閤記』や『武将感状記』などでは「濃姫」とされている。

これは「美濃」から嫁いできた「姫」ということで「美濃姫」=「濃姫」となったといわれる。

またこのほか『美濃国諸国記』では「帰蝶」、『武功夜話』では「胡蝶」など、とにかく書かれるもので名前が違う。

 

逆に考えると、なぜここまであちこちに書かれているのに名前がわからないのか。

 

それは、名前が書かれているものすべて、史料として、書かれた年代が戦国時代から時間が経ってしまっていたり、公式の記録ではなかったりと、信憑性に欠けるからである。

 

当時の女性で、本名がわからないというのは珍しくないのだが、非常に書きづらくまた、話しづらいので、今回は「濃姫」で統一したい。

濃姫の父親も、「道三」で統一する)

 

濃姫の家族

美濃国(現在の岐阜県)の国主・斎藤利政(のちの道三)と小見の方の娘として生まれた濃姫

 

父親の斎藤道三はいわゆる「下剋上大名」の1人である。

もともとは美濃国守護・土岐氏重臣であった。

母親の小見の方は、「明智氏」の出身であり、今年の大河ドラマの主人公・明智光秀は小見の方にとって甥っ子、つまり濃姫にとっては従兄弟だったともいわれている。<この関係には諸説ある>

 

濃姫は、初め土岐頼純に嫁ぎ、頼純亡き後、織田信長に嫁いだといわれている。

母は違うが、兄に斎藤義龍がおり、ほかにも兄弟姉妹がいる。

 

濃姫の生涯

天文4年(1535)に生まれたといわれる。

生年に関して書かれた書物は『美濃国諸国記』のみであり、『美濃国諸国記』の信憑性は上記でも述べたように、今一つということもあり、この記述が正確なものなのかどうかは不明のまま。

 

※「信憑性に欠ける」と連呼して申し訳ないが、これは「嘘ばかり」ということではなく、「どれが本当のことなのかわからない。真実もあるかもしれないし、創作もあるかもしれない」という状態で、真偽不明ということである。もちろん新史料が出てくれば変わる。求む、新史料。

 

 

美濃国(現・岐阜県)は、越前国(現・福井県)の朝倉氏、尾張国(現・愛知県)の織田氏などから常に狙われ続け、幾度となく侵攻されていた。

 

道三はまず、朝倉氏との和睦を画策。

朝倉氏からの「土岐頼芸の守護退任」という条件をのむこととなる。

(この関係性は、後日整理したいところ…。ややこしい…。)

 

天文15年(1546)、当時の美濃国守護・土岐頼芸を約束通り追放し、実質的に美濃の支配者となった道三は、朝倉氏との和睦の証として、頼芸退任後に美濃国守護となった、頼芸の甥・土岐頼純に濃姫を嫁がせたといわれる。

 

天文16年(1547)頼純が24歳で急死。濃姫は斎藤家に戻ってくることとなる。

濃姫が天文4年に生まれていたとすると、12、13歳の出来事となる。

ドラマ内で、頼純は毒殺されていたが(伊●衛門茶事件)、史料がないため確証はなく、表向きは病死とされている。

 

道三は次に、尾張織田家との和睦を画策。

和睦の証として、未亡人となっていた濃姫を、今度は織田信長のもとに嫁がせる。

太田牛一の『信長公記』には、このときの婚礼について、たった一行だけ記述がある。

 

「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき」

(平手政秀の働きで、信長を道三の婿とする縁組が決まり、道三の娘を尾張に迎えた)

 

このことから、織田家重臣であり、信長の傅役であった平手政秀が働きかけ縁組が進んだことがうかがえる。

 

当時の織田家は、嫡男である信長の奇行が目立ち、織田家の将来を心配する家臣が少なからずいた。

信長と濃姫の縁組は、織田家と和睦したい道三と、道三を後ろ盾につけ、信長の足場固めをしたいと考えていた平手政秀両者の思惑が一致して取り決められたのだろう。

 

天文18年(1549)、めでたく信長と濃姫が結婚。

信長16歳、濃姫15歳。

 

 

ただし、土岐頼純に嫁いだ女性と、織田信長に嫁いだ女性が、同一人物であったかどうかは定かではない。

こんなに長々と書いてきて梯子を外すようで申し訳ないが、名前がわからないということが非常にネックになっている。

 

夢枕獏先生の小説『陰陽師』の中で、安倍晴明がよく口にする言葉がある。

「名とは、親が子にかける最初の「呪」である」

 

家の名前

性別

 

これだけでは個人が特定できないのだ。

人は名前をもらって初めて個人だと認識される。

「△△家の娘さんの、〇〇さん」というふうに。

 

 

表舞台に名前が出てこない彼女たちは、戦国の乱世をどのようにして生き抜いていったのだろうか。

 

今日のまとめと今後の目標

信長との結婚の後、「濃姫」は歴史の表舞台からほぼ完全に姿を消す。

というより、「〇〇と結婚した」という時くらいしか、表舞台に姿を表していないというのが実情である。

これは、土岐頼純ともだが、織田信長との間に子どもを授からなかったということも大きな要因だろう。

もともと歴史上で女性の名前が残ることが少ないので致し方ない部分もある。

 

しかし、天下取りまであと一歩というところまでいった、時代の寵児である武将の正室として、亡くなった時期も場所も、戒名すら正確にはわからないというのは解せない話である。

 

長くなってしまったので、今日は一旦店じまい。

明日以降、織田家に直接的に関わる史料には出てこない濃姫を追ってみたいと思う。

 

 

 

お題「#おうち時間

#麒麟がくる #帰蝶 #濃姫 #斎藤道三 #織田信長 #明智光秀

【日本史勉強法】 勉強の心構え

やるやる詐欺のようになっていますので、いい加減エンジンをかけましょう…。

 

こちらのブログ、もちろん好きなことを好きなように書く用に開いたものなのですが、大テーマは「日本史をもっと知ろうぜ!」というテーマで立ち上げました。

(すっかりドラマの話しかしないブログになってしまっていますが…)

 

身の回りが忙しくてなかなか大変だったのですが、少し落ち着いたので、定期更新をめざし、がんばります。

 

本日のテーマは『日本史勉強の心構え』です。

 

日本史は勉強する以前に「心構え」なるものが必要なのか!むり!

…そう思わず、少しお時間をいただければ。

 

前にも少しだけ言及したのですが、選択制の受験科目は、

 

1・その科目が得意な人

2・いろいろ取捨していったらその科目しか残らなかった人

 

この2種に分かれると思います。

英語や国語のように必須でないものは、基本取捨していくことになります。

 

1の得意な人は、正直なんの問題もありません。

むしろ、そればっかり勉強するな、他にもやらなければならないことが、たくさんあるというアドバイスで終わりです。

 

問題は2。

この人は、大抵「選んだもののそれほど好きじゃない」という二言目がついてきます。

好きじゃないものを義務として学ばなければならないというのは、苦痛以外のナニモノでもないです。授業で充分体験したじゃないですか。

 

ただ、多いのは「2」の人。

私みたいに「日本史?勉強しなくてもイケる!」という人は少ないんじゃないかなと思います。

義務で学ばなければならなかった日本史は、受験が終われば遠い遠い宇宙の果てに投げられ、ホコリをかぶったまま放っておかれます。

そしてそのなかで、ある一定の年齢を超えたあたりくらいから、日本史に目覚める人が出てきます。

かなり厄介な形で再登場する方も、少なくないのが頭が痛いです。

 

そう。

自国の歴史を理解している人が少なすぎるんです、この国。

教え方(授業方法)の問題もあるとは思います。

私は得意科目ですが、授業はつまらないと思いましたもの。

 

どこか一箇所だけを取り出して理解することはできなくはないですが、確実にズレが生じます。

それはなぜか。

歴史はすべて地続きだからです。

突然空から降ってきたコンテンツではないからです。

 

「心構え」としたのは、勉強のマインドを変えましょう!ということ。

日本史は、暗記科目ではありません!理解科目です。

もう一度いいます。

 

日本史は、暗記科目ではなく、理解科目です!!!

 

受験科目として選ばざるを得なかった人は、他の勉強の合間(息抜きタイム)で、お風呂に入りながら、寝る前で…に教科書、もしくは参考書を読んで理解することからまず始めれば良いのです。

 

今、私たちが生きているのもいつか…いえ、瞬間で過去になり、「歴史」になります。

歴史は必然の塊です。

その瞬間に生きていた人たちが選んできた必然で歴史が成り立っていきます。

 

もちろん、覚えるべき箇所はあります。

それは、公式を覚えたりするのと一緒です。

 

そのことを念頭において、学んでいきましょう!

【若干ネタバレあり】2019夏・テレビ朝日系木曜ドラマ『サイン』にみる、リメイク作品の限界

「備忘録」と称した例の記事を進めたいところですが、このドラマの感想を忘れず書いておきたいと思ったので、先に書きます。今にも忘れちゃいそうなので。

 

 

概要

『サインー法医学者 柚木貴志の事件ー』

2019年夏クールのテレビ朝日系木曜21時台の連続ドラマ。

出演:大森南朋、飯豊まりえ、森川葵松雪泰子仲村トオル西田敏行 他

原作:2011年に韓国で大ヒットしたドラマ『サイン』

 

あらすじ

厚生労働省警察庁共同管轄の日本法医学研究院に所属する解剖医・柚木貴志(大森南朋)が、新人解剖医・中園景(飯豊まりえ)とコンビを組み、あらゆる事件の真相を追い求め、真実を隠蔽しようとする権力に立ち向かっていく物語。

 

個人的感想

及第点

良かった点は、「いつもと違う」ドラマだったという点。

大ヒットドラマシリーズが数ある枠で、あえてシリーズ物ではない新作品を作るというのは、勇気が必要だったと思う。

その姿勢はとても評価できるし、ぜひまた、「いつもの」ではないものに挑戦してほしい。

 

反省点

とにかく全体がぼやけていて薄い。

物語の背景、登場人物たちの背景、関係性すべてが薄味。

 

まず、舞台である「日本法医学研究院」。

韓国版では、実際に存在する「国立科学捜査研究院」というところが舞台だったそうだが、日本にはないので、架空の舞台にしたとのこと。

これが実に良くない。

いや、架空の舞台がダメなのではない。

架空の舞台なら、その「物語の世界線」に根付かせなくてはならないのだ。

正確にいうと、現代の日本が舞台のベースにあるというなら、現実にあってもおかしくない・むしろありそうな設定の舞台を作り上げなくてはならないのだ。そこの詰めが非常に甘い。全てが架空ならどうでもいいことなのだけど。

 

甘い舞台を中心に、そこのトップの座を狙う伊達明義(仲村トオル)。彼がなぜそこに執着するのか、今一つ掴めないまま物語は進む。恩師である兵頭邦昭(西田敏行)を自殺に追い込んでまで、彼は何を守ろうとしたのか。最終回までみた今現在も、さっぱりわからない。一体何だったのだろう。

 

初回に匂わせた女性・島崎楓(森川葵)が、最終章にも深く関わってくるというのは、連続ドラマあるある手法なのでそこは別にいいのだが、彼女が最終回で柚木に繰り返し言い続ける

「永士がどうやって死んだか、知りたい?」

というセリフは、解剖してんだから、「HOW」はわかってるんだよ、ぼけっていう話。知りたいのは、「WHY」。ただ、そもそも一解剖医がなぜ捜査しているのか、その前の時間帯の「某女性科捜研職員(法医学担当)」もそうだからなのか…?

 

 

改善点

まず、兵頭先生との話を前半であんなにひっぱり続けることはなかったのではないか。

兵頭先生がいない世界線からのスタートでも、話は十分進められたのでは。

 

そして、主演の年齢を少し下げる。

もう少し設定を下げめでも良かったのではないか。(韓国版のパッケージだけみたらあんな雰囲気だったから、似た俳優さんをチョイスしたのかもしれないけれど…)

大森さんがすべて悪いわけではないのだが、仲村トオルさんとの上下関係がわかりづらい。仲村トオルさんの方が、実年齢少し上なのだが、並ぶとほぼ同世代に見え、ドラマ内では同期?くらいに思って見ていたら、だいぶ年齢差があるらしいという描写があり、大混乱。

主演の年齢を少し下げるだけで、絶対的な上下関係みたいなものが画面だけでも伝わりやすいのではないか。

新人解剖医の飯豊まりえと、師弟愛のような、恋愛感情のような薄めの甘酸っぱさを醸すなら下げめの方がしっくりくる。

主演の年齢をさげれば、元カノ・和泉千聖松雪泰子)の年齢も少し下げざるをえなくなり、やり手の、上昇志向が強い女性刑事という絵がそれなりに出来上がったのではないか。

そうすれば、若手捜査官・高橋紀理人(高杉真宙)の「一生ついていきます!」という最後のセリフがそれなりに効いてきたのではないか。

そんなそもそも論がぐるぐると回ってしまう。

 

パワハラ大王」と異名がつくほどの暴君が、新人を認め、デレるのが回想のみって…。

あぁ、なんと勿体無い。

ここぞというときに、柚木が一人で中園の実家に行く後ろ姿だけでもインサートしてくれていたら、印象はまったく違うものになったのに。

 

柚木が殺害され、その様子を警察、法医研の面々でみているとき、隠しカメラの中の映像(アップ)は絶対に不要だった。

隠しカメラの映像を見る面々と、隠しカメラの映像のみで良かった。

どうしても森川葵のアップを入れたいというのであれば、回想として楓に語らせて、そこでインサートすれば良いのだ。

 

なにより。

主人公が最終回の途中で殺害されるということは、主人公は柚木貴志ではなく、中園景だったのではないのか。

柚木が権力に立ち向かうのが物語の軸ではなく、柚木を通して成長する景の物語だったのではないか。

そう考えると、仲村トオルの暗躍も、大物然として登場した篠井英介も、木下ほうかも、なぜうっすらとした存在感だったのか、腑に落ちるのだ。

そう、中園景の成長物語には不要の人物だから。

ちょっと濃い色をつけられた背景でしかないから。

 

ただ、彼女の成長物語とするなら、第2章とされた第6話あたりからの話が最終回までひっぱられなければいけない。

彼女の妹が絡んでくるからだ。

ただそうすると、疑惑のファーストレディ、森川葵がいきてこない。

痛し痒しの状態なのである。

それはなぜか。

 

話の軸がブレているからだ。

柚木が、権力に立ち向かう話も中途半端

景を主人公にすると、いきてこない人物・話がある

そう。両方はとれないのだ。

どちらかを軸にするしかなかったのに、今回のリメイクでは、両方の話を動かしてしまった、そこが敗因だと思っている。

 

 

演出面は、そこまで気にはならなかったが、やはりというか、最終回はいろいろ無理がたたっていた。最終回直前まで、とにかくどんどん話の枝葉が広がっていったという印象は拭えなかった。 

 

まとめ

「韓国ドラマのリメイクなんて!」

と、憤る人は、きっと一定数おられるのだろう。

私は、おもしろければなんでもいいと思っているたちなので、そのあたりはどうでもいい。

ただ、契約内容の問題なのかもしれないが、そのまま置き換えるだけでOKとはいかないのが、韓国ドラマリメイクの難しいところだとは痛感している。

 

韓国本国のドラマは、日本と違い、1話ごとの時間が長く、途中にCMも入らないと聞く。単純に、1時間のドラマだったら、1時間分丸々使って描けるのだ。

日本は、1時間のドラマではなく、だいたい45分程度のドラマに抑えなければならない。そして、「クール」という壁が立ちはだかる。当たれば何話でも放送して良いという本国とは、そこが圧倒的に違う。

だからこそ、リメイクにあたっては、緻密な組み立てが必要になってくるのではないか。

 

隣の国で、言語学的にもかなり近い存在だとはいっても、育んできた歴史や、生活の違い、思考方法の違い、感じ方の違いは、否応無く現代ドラマにのしかかってくる。

「国立科学捜査研究院」という物語上最も重要な存在も、名前だけ変えればハマるかと問われれば、絶対にNOなのだ。

 

日本の実写化や、リメイクが弱いのは、そのあたりの軽視が如実に出ているからだと感じている。

実写化やリメイクがすべてダメだとは言わないが、「原作(大元)により似せた格好をしていれば良作」と思ってはいないだろうか。そんなものは、コスプレして画面に映って喋っているだけで、ドラマでもなんでもない。役作りの必要もないから、役者の技量だってどうでもよいことになる。演技が上手い人がいらないわけではない。上手かろうが、下手だろうが関係ないということだ。

 

今回のテレ朝ドラマチームの挑戦は、個人的には好意的にみているのだが、次回以降はぜひ、しっかり気合を入れてつくってほしい。