【麒麟がくる】濃姫の謎②〜父・斎藤道三と、夫・織田信長〜

先日の記事の続きを書こう。

がんばれ、私。。。

戦国時代は正直あまり得意ではなく…始めてはみたもののヒーヒーいっている状態なのは、内緒。

 

信長に嫁いだ女性が、かつて土岐頼純に嫁いだ女性と同じ女性と仮定し、かつその女性を「濃姫」と記述することで話を進めようと思う。

 

 

結婚後の夫・織田信長

教科書に出てくるくらいの有名人で、「うつけ者」日本代表と言っても過言ではない織田信長

結婚すると落ち着く男性もいるが、彼にその枠がはまらないことは、多くの人が知っているだろう。

 

そもそも「うつけ者」=「大馬鹿者」と訳されるが、少し違う。

「うつけ」というのは「虚」や「空」などと書き、もともとは「からっぽ」という意味である。

それが転じて「ぼんやりしている様」やさらに「常識から外れた」という意味でも使われるようになった。奇妙な振る舞いをすることで「うつけ」と呼ばれることもあったという。

 

ということは、信長は「大馬鹿者」というより「奇妙な振る舞いをする者」として認識されていたのではないか。まさに奇行種。

 

想定外の動きをし、周囲の人間を振り回し、心身ともに疲弊させる男。

それが織田信長だったのではないか。

 

奇行種・信長の逸話として有名なのは、父・信秀の葬儀での振る舞いである。

天文18年(1549)に無事結婚した信長と濃姫だったが、その3年後の天文21年(1552)に父・織田信秀が死去する。

 

嫡男として、父の葬儀を恙無く進めなければならない立場の信長であったが、葬儀には遅刻、いつものだらしない姿で現れ、あまつさえ、父親の位牌に焼香用の抹香を投げつけたのである。

 

信長公記』にもその記述がある。

「信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。」

(信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴も履かず。仏前に出ると、抹香をかっと掴んで仏前へ投げかけて帰った。)

 

ちなみにこの時、弟はちゃんとしていたらしい。。。

「御舎弟勘十郎は折日高なる肩衣、袴めし候はて、あるべき如きの御沙汰なり」

(弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し、礼にかなったあるべき作法であった)

 

別の逸話では、夜な夜な寝所を抜け出て明け方に帰ってくる信長を、濃姫が問い詰めた際、「斎藤家に潜り込ませている自身のスパイが、道三を殺したら狼煙をあげる手筈になっているから確認しに行っている」と言ったという。

これを知った濃姫は、父・道三に手紙を出し、そのことを知った道三は、スパイをあぶり出し、殺害して事なきを得たーー。

この逸話については、後世の創作である可能性が高いといわれている。

 

理由は2つ。

まず、「この時期に齋藤家の家臣が殺された事実がどの史料にもないこと」。

そして、そもそも「信長の当時の居城・那古野城から、道三の居城・稲葉山城の狼煙はみえない」こと。

那古野城から稲葉山城まで、直線距離で約30km。

 

…東京を例に考えてみよう。

東京駅をスタート地点として、北に30km程度のところは埼玉県越谷市春日部市あたり。

南に30kmは東京湾海上、東30kmは千葉県千葉市花見川、西30kmは東京都国立市あたりとなる。

おそらく、なにをどうがんばっても、何も見えないだろう。

 

このことから、”夜な夜な寝所を〜”という逸話の信憑性は薄いと考えられる。

 

だからといって、信長が想定外の奇妙な振る舞いを続けていたということに変わりはなく、傅役の平手政秀を筆頭に、家臣はみな不安だっただろうと思う。 

 

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那古野城稲葉山城の直線距離

信長と、義父・道三 

信長が虎視眈々と道三の首を狙っていたーー

 

などという創作がつくられてしまう織田信長斎藤道三

一見相入れなさそうな印象を受ける超個性派の2人だが、果たしてその真相は?

 

舅と婿が仲が悪いというのは、間に立つ嫁にとって、それはそれは大変なことなのは想像に難くない。

(現代はどちらかというと、姑と嫁の間の婿という立場から、男性の方が覚えがあるかも…?)

 

では、本当に仲が悪かったのか。

仲が良くて大好き!俺たちマブダチ!などという史料はあるわけもないので、史実から探って堀を埋めていきたい。

 

信長と道三の直接会見

天文22年(1553)道三と信長は、直接会談の場を設ける。

大河ドラマでは先日放送された第14回「聖徳寺の会見」である。

 

4月下旬、道三から会見したいとの話を信長側に持ちかける。

会見したい理由は、婿・信長の器を見極めたかったからだという。

 

うつけ者と名高い信長を笑ってやろうと、あらゆる手段をとった道三は、町外れの小屋に隠れて信長の行列を覗き見し、いつも以上に奇妙な格好をした信長を目にすることとなる。

頭を抱えたことだろう。

大馬鹿者は真実だったのだと。

 

しかし、会見の場に現れた信長は、打って変わって長袴、小刀という正装であった。

 

会見を終えた道三は、「道三の息子たちは、いずれ信長の家臣となるだろう…」と、呟いたという。

このとき道三は「信長は只者ではない…」と感じたとか。

 

ちなみにこの話、信長の一次史料といわれ、こちらでも何度か名前を出して使用している『信長公記』から引っ張ってきた話だが、このエピソードは微妙に人名などが間違っていたりしており、真実かはわからない。(こんなんばっかりだ)

 

信長と道三の協力関係

天文23年(1554)、信秀亡き後、織田家がバラバラになりつつある今が狙いどきと、今川氏が尾張に侵攻。

今川は、尾張領内の南から侵攻し、周囲の城を降伏させながら、信長の居城・那古野城と、織田領地南方にある緒川城の間、村木村に領地を分断するような砦をつくる。(村木砦)

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緒川城と村木砦と那古野城


 

周囲の城が今川に降伏する中、緒川城を助けるには、村木砦を落とす必要がある。

しかし、そのために信長が出兵すると、居城の那古野城がガラ空きとなってしまう。

 

父親が亡くなってから、織田家内での味方にあまり恵まれていなかった信長は、義父・道三に援軍を依頼。

この依頼を受けた道三は、すぐに兵を派遣し、那古野城の守りを固めた。

 

いくら義父といえども、本拠地を他国の軍に守らせるというのは異例であり、このことからも、聖徳寺での会見以降、信長と道三の関係が、強固になっていたことがわかる。

2人の間を取り持っていたのは、他ならぬ濃姫の存在だったのではないか。

 

道三からの援軍によって背後(那古野城)を固めた信長は、熱田から海を渡り、緒川城に入城。鉄砲の使用により砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功した。

 

濃姫の父・斎藤道三の死

天文23年(1554)、婿・信長との関係は強固になっていた道三は、家督を息子・義龍に譲り、自身は出家する。(このときから「道三」と名乗る)

土岐氏の居城だった鷺山城で、隠居生活を始めようとしていた。

 

しかし、義龍が実の弟たちを次々に殺害。

一説には、父親から可愛がられていた弟たちが、いつか、自分に取って代わるのではないかと怖れたためともいわれているが、真相は本人にしかわからない。

(そもそも弟たちが道三から特別可愛がられていたかどうかがわからない。)

 

義龍のこの行いに道三は激怒し、挙兵。鶴山付近に布陣する。

道三の兵は約2,000人、義龍は、斎藤家の家臣団に支持されたこともあり、約12,000人の兵で対峙した。

 

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地図では出てこない鶴山の位置

圧倒的な兵力の差に死を覚悟した道三は、かの有名な「美濃一国譲り状」を残したと言われている。

(個人的には、多くの家臣が自分ではなく、義龍についたことも、道三はショックだったんじゃないかなと思っている。道三だって人間だもの。)

 

この「美濃一国譲り状」だが信憑性が曖昧であり、丸々信用して良いのかどうかがわからない代物である。江戸時代に作られたともいわれる。

(紙の年代調べたら一発じゃないかと思うんだが…安直かな?)

この書状の大まかな内容は「自分の死後、濃姫の婿・信長へ、美濃一国を譲る」というものである。

 

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵。

清洲城から出兵したものの、大良河原(現・岐阜県羽島市)で義龍軍により進軍を阻まれる。

援軍が断たれた道三の劣勢は変わらず、首を落とされることとなる。

弘治2年(1556)の出来事であった。

 

桶狭間の戦い〜美濃獲得

永禄3年(1560)、かの有名な「桶狭間の戦い」が勃発。

永禄5年(1562)、信長は、今川氏から独立しようと画策していた三河国徳川家康と同盟を結ぶ。(清州同盟)

三河との同盟締結により、信長はいよいよ美濃攻めに乗り出す。

 

信長にとっての義父・道三の首をとった道三の息子・義龍は、永禄4年(1561)に病死している。義龍亡き後、美濃は、義龍の息子・龍興が治めていた。このとき14歳。

14歳の若き領主に、もしかしたら不安を覚える家臣は少なくなかったのかもしれない。

なにせ美濃は、周囲の武将たちが皆狙う要所。

 

信長はまず調略により斎藤家の重臣を味方につけ、永禄10年(1567)、稲葉城を攻め落とし、美濃を手に入れることとなる。

稲葉山城に入城した信長は城の名前を「岐阜城」と改め、この城を天下取りの拠点とした。

 

余談だが、この「岐阜城」という名前。

尾張の禅僧が、中国の故事から考え、進言した3案の中から信長が選んだといわれている。

…「義父の城」で「ぎふじょう(岐阜城)」だったら熱いな…という独り言。

(そもそも「義父」という概念は当時からあったのか…?)

 

この時期の濃姫の動向

父の死を知った濃姫は、父の死を悲しみ、肖像画を描かせ、美濃・斎藤家の菩提寺・常在寺に納めさせたといわれている。絹本着色斎藤道三像

 

今日のまとめと次の予告

歴史の表舞台からは完全に姿を消している濃姫

しかし、父と夫との関係、父の死などを通して、存在を感じることもできる。

 

次回は、父亡き後、織田家での濃姫の動向を探っていきたい。

 

お題「#おうち時間

#麒麟がくる #濃姫 #帰蝶 #織田信長 #斎藤道三 #明智光秀

【麒麟がくる】濃姫の謎①〜名前、家族、そして生涯〜

大変な時代になった。

よく「戦時と同じ」などといわれるこのコロナ禍。

 

こんなときに大活躍するのはいわゆる「理系」の方々で、我々「文系」、特に語学と無関係の人間は、本当に役に立たない。

びっくりするほど役立たず。

歴史家なんてものも、有事ではさっぱり。

歴史家が役に立つのは全てが終わってから。まとめ、記録として残したことを伝えていくのみ。

その残した記録が役に立つのかどうかは、後世の人たちによる。

(シュレッダーされたら泣くね…)

 

そ こ で ! !

STAY HOMEを実行する、多くの優しい人たちに、暇つぶしコンテンツを提供する程度のことはできるのではと思い立ち、今年の大河ドラマ麒麟がくる』から、「濃姫」のお話を少し。

 

 

名前の謎〜帰蝶?胡蝶?濃姫

大河ドラマでは、放送開始前から大騒動があったこの役。

女優の川口春奈さんが演じ、ドラマ内では「帰蝶」と呼ばれている。

 

実はこの帰蝶、本当の名前は不明である。

 

彼女の名前に言及した史料はほぼないといっても過言ではない。

 

『絵本太閤記』や『武将感状記』などでは「濃姫」とされている。

これは「美濃」から嫁いできた「姫」ということで「美濃姫」=「濃姫」となったといわれる。

またこのほか『美濃国諸国記』では「帰蝶」、『武功夜話』では「胡蝶」など、とにかく書かれるもので名前が違う。

 

逆に考えると、なぜここまであちこちに書かれているのに名前がわからないのか。

 

それは、名前が書かれているものすべて、史料として、書かれた年代が戦国時代から時間が経ってしまっていたり、公式の記録ではなかったりと、信憑性に欠けるからである。

 

当時の女性で、本名がわからないというのは珍しくないのだが、非常に書きづらくまた、話しづらいので、今回は「濃姫」で統一したい。

濃姫の父親も、「道三」で統一する)

 

濃姫の家族

美濃国(現在の岐阜県)の国主・斎藤利政(のちの道三)と小見の方の娘として生まれた濃姫

 

父親の斎藤道三はいわゆる「下剋上大名」の1人である。

もともとは美濃国守護・土岐氏重臣であった。

母親の小見の方は、「明智氏」の出身であり、今年の大河ドラマの主人公・明智光秀は小見の方にとって甥っ子、つまり濃姫にとっては従兄弟だったともいわれている。<この関係には諸説ある>

 

濃姫は、初め土岐頼純に嫁ぎ、頼純亡き後、織田信長に嫁いだといわれている。

母は違うが、兄に斎藤義龍がおり、ほかにも兄弟姉妹がいる。

 

濃姫の生涯

天文4年(1535)に生まれたといわれる。

生年に関して書かれた書物は『美濃国諸国記』のみであり、『美濃国諸国記』の信憑性は上記でも述べたように、今一つということもあり、この記述が正確なものなのかどうかは不明のまま。

 

※「信憑性に欠ける」と連呼して申し訳ないが、これは「嘘ばかり」ということではなく、「どれが本当のことなのかわからない。真実もあるかもしれないし、創作もあるかもしれない」という状態で、真偽不明ということである。もちろん新史料が出てくれば変わる。求む、新史料。

 

 

美濃国(現・岐阜県)は、越前国(現・福井県)の朝倉氏、尾張国(現・愛知県)の織田氏などから常に狙われ続け、幾度となく侵攻されていた。

 

道三はまず、朝倉氏との和睦を画策。

朝倉氏からの「土岐頼芸の守護退任」という条件をのむこととなる。

(この関係性は、後日整理したいところ…。ややこしい…。)

 

天文15年(1546)、当時の美濃国守護・土岐頼芸を約束通り追放し、実質的に美濃の支配者となった道三は、朝倉氏との和睦の証として、頼芸退任後に美濃国守護となった、頼芸の甥・土岐頼純に濃姫を嫁がせたといわれる。

 

天文16年(1547)頼純が24歳で急死。濃姫は斎藤家に戻ってくることとなる。

濃姫が天文4年に生まれていたとすると、12、13歳の出来事となる。

ドラマ内で、頼純は毒殺されていたが(伊●衛門茶事件)、史料がないため確証はなく、表向きは病死とされている。

 

道三は次に、尾張織田家との和睦を画策。

和睦の証として、未亡人となっていた濃姫を、今度は織田信長のもとに嫁がせる。

太田牛一の『信長公記』には、このときの婚礼について、たった一行だけ記述がある。

 

「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき」

(平手政秀の働きで、信長を道三の婿とする縁組が決まり、道三の娘を尾張に迎えた)

 

このことから、織田家重臣であり、信長の傅役であった平手政秀が働きかけ縁組が進んだことがうかがえる。

 

当時の織田家は、嫡男である信長の奇行が目立ち、織田家の将来を心配する家臣が少なからずいた。

信長と濃姫の縁組は、織田家と和睦したい道三と、道三を後ろ盾につけ、信長の足場固めをしたいと考えていた平手政秀両者の思惑が一致して取り決められたのだろう。

 

天文18年(1549)、めでたく信長と濃姫が結婚。

信長16歳、濃姫15歳。

 

 

ただし、土岐頼純に嫁いだ女性と、織田信長に嫁いだ女性が、同一人物であったかどうかは定かではない。

こんなに長々と書いてきて梯子を外すようで申し訳ないが、名前がわからないということが非常にネックになっている。

 

夢枕獏先生の小説『陰陽師』の中で、安倍晴明がよく口にする言葉がある。

「名とは、親が子にかける最初の「呪」である」

 

家の名前

性別

 

これだけでは個人が特定できないのだ。

人は名前をもらって初めて個人だと認識される。

「△△家の娘さんの、〇〇さん」というふうに。

 

 

表舞台に名前が出てこない彼女たちは、戦国の乱世をどのようにして生き抜いていったのだろうか。

 

今日のまとめと今後の目標

信長との結婚の後、「濃姫」は歴史の表舞台からほぼ完全に姿を消す。

というより、「〇〇と結婚した」という時くらいしか、表舞台に姿を表していないというのが実情である。

これは、土岐頼純ともだが、織田信長との間に子どもを授からなかったということも大きな要因だろう。

もともと歴史上で女性の名前が残ることが少ないので致し方ない部分もある。

 

しかし、天下取りまであと一歩というところまでいった、時代の寵児である武将の正室として、亡くなった時期も場所も、戒名すら正確にはわからないというのは解せない話である。

 

長くなってしまったので、今日は一旦店じまい。

明日以降、織田家に直接的に関わる史料には出てこない濃姫を追ってみたいと思う。

 

 

 

お題「#おうち時間

#麒麟がくる #帰蝶 #濃姫 #斎藤道三 #織田信長 #明智光秀

【日本史勉強法】 勉強の心構え

やるやる詐欺のようになっていますので、いい加減エンジンをかけましょう…。

 

こちらのブログ、もちろん好きなことを好きなように書く用に開いたものなのですが、大テーマは「日本史をもっと知ろうぜ!」というテーマで立ち上げました。

(すっかりドラマの話しかしないブログになってしまっていますが…)

 

身の回りが忙しくてなかなか大変だったのですが、少し落ち着いたので、定期更新をめざし、がんばります。

 

本日のテーマは『日本史勉強の心構え』です。

 

日本史は勉強する以前に「心構え」なるものが必要なのか!むり!

…そう思わず、少しお時間をいただければ。

 

前にも少しだけ言及したのですが、選択制の受験科目は、

 

1・その科目が得意な人

2・いろいろ取捨していったらその科目しか残らなかった人

 

この2種に分かれると思います。

英語や国語のように必須でないものは、基本取捨していくことになります。

 

1の得意な人は、正直なんの問題もありません。

むしろ、そればっかり勉強するな、他にもやらなければならないことが、たくさんあるというアドバイスで終わりです。

 

問題は2。

この人は、大抵「選んだもののそれほど好きじゃない」という二言目がついてきます。

好きじゃないものを義務として学ばなければならないというのは、苦痛以外のナニモノでもないです。授業で充分体験したじゃないですか。

 

ただ、多いのは「2」の人。

私みたいに「日本史?勉強しなくてもイケる!」という人は少ないんじゃないかなと思います。

義務で学ばなければならなかった日本史は、受験が終われば遠い遠い宇宙の果てに投げられ、ホコリをかぶったまま放っておかれます。

そしてそのなかで、ある一定の年齢を超えたあたりくらいから、日本史に目覚める人が出てきます。

かなり厄介な形で再登場する方も、少なくないのが頭が痛いです。

 

そう。

自国の歴史を理解している人が少なすぎるんです、この国。

教え方(授業方法)の問題もあるとは思います。

私は得意科目ですが、授業はつまらないと思いましたもの。

 

どこか一箇所だけを取り出して理解することはできなくはないですが、確実にズレが生じます。

それはなぜか。

歴史はすべて地続きだからです。

突然空から降ってきたコンテンツではないからです。

 

「心構え」としたのは、勉強のマインドを変えましょう!ということ。

日本史は、暗記科目ではありません!理解科目です。

もう一度いいます。

 

日本史は、暗記科目ではなく、理解科目です!!!

 

受験科目として選ばざるを得なかった人は、他の勉強の合間(息抜きタイム)で、お風呂に入りながら、寝る前で…に教科書、もしくは参考書を読んで理解することからまず始めれば良いのです。

 

今、私たちが生きているのもいつか…いえ、瞬間で過去になり、「歴史」になります。

歴史は必然の塊です。

その瞬間に生きていた人たちが選んできた必然で歴史が成り立っていきます。

 

もちろん、覚えるべき箇所はあります。

それは、公式を覚えたりするのと一緒です。

 

そのことを念頭において、学んでいきましょう!

2019.3.24(日)なんで小説を書こうとしているのか

今日はタイトルの通り。

なんで今更そんな事しようと思ったのかっていう話。

 

元々執筆欲があったのかと問われれば、それは断然NO。

むしろ文章を書くことは大嫌い。

 

理由は単純なんですけど、家人にプロの文章書きがおりまして…。

小学校低学年時に、毎週末出される作文の宿題があったんですけど、

書いたら見せて、添削されて、日曜日の夕方に必ず書き直させられるという苦行を経験しておりまして…。

ちょっとした修正ならまだしも、まぁまぁ時間かけて書いたものを全否定ということも多々あり、正直、辟易していたわけです。

 

なので、文章を書くというのはトラウマでもありました。

学校でイベントごとに書かされる作文も大嫌いで、最低限しか書きませんでした。

タイトル書いて、名前書いて、3行あけてから書き出して、原稿用紙半分のところぴったりで終わらせていました。

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もうね、ブログが精一杯。

学生時代から他愛もないブログは書いていましたが、それが限界。

便所の落書きみたいなものですな。

 

社会に出てからは、ライブなどの宣伝も兼ねて書いていましたが、それもあまりしなくなりました。

 

…で、現在。

勤め人として、文章に関わる仕事をしているのですが、様々な人の文章を読んでいくうちに、自分の文章がびっくりするくらい下手くそになっていきました。

というか、言葉が出てこなくなったんですよね。

 

友人に、素人なのですが、若い時からとても面白い文章を書く人がいましてね。

彼女にその話をちらっとしたら、どんな形でもいいから毎日書かないと、文章構築力は落ちていくよ!とはっきり言われました。

 

実際、他人様の文章は読むし、添削もするんですけど、自分の文章って数年書いていないなと気づきました。

まずはブログを再開させました……といっても緩々とですが。

 

でね。

かなり前から温めていた原案を形にしたい欲っていうのが出てきちゃいました。

漫画でもなんでもいいなと思ったんですけど、絵は趣味なだけで、まったく上手くないんですよ。

まぁ、だからといって文章が上手いかと問われると、それも微妙ですが。

 

数年、現在の仕事をしてきて、変な文章は山のようにみてきたし、私が書いた企画書など受けも良かったので、小説書きというものにチャレンジしてみたわけです。

 

有名なPixivというところで書いていますが、他のみなさんの上手いこと、上手いこと。

もうびっくり。

プロより上手い人とかいて羨ましい限りですわ。

 

昨日サクサクっとアップした小説。

実はね、終わりがなんとなくしか見えてないんですよ。

一応簡易プロットはあるんですけど、「らしきもの」の状態で、そこを少しずつ膨らまして、ちょこちょこ書いているので、プロットとは気持ち変わっている部分もあります。

 

だからね、無事着地できるのか、もう超不安。。。

自分が一番、自分を信用できていない。

……気長にいきましょう。

 

人生はたった一度きり。

次は人間に転生できるとは限りません。

今やりたいなと思ったことに手を拱いていると、あっという間に人生終わります。

 

何かを書いて(描いて)発表するという行為は、とても苦手です。

自分の頭の中を覗かれている感覚に陥るので…笑

 

でも、これで死んだら死にきれないと思ったんです。

頭の中だけでぐちゃぐちゃするより、出してスッキリしたいなと思ったんです。

 

大した文章ではまったくもってないですし、アップしたくせに結構大規模な修正かけたりとか平気でするんですけど、お付き合いいただけたら幸いです。

 

www.pixiv.net

 

2019.03.18(月)【ドラマ感想】NHKBSプレミアム『小吉の女房』

最初に言っておくと、私は無類の「時代劇すきー」だったりする。

 

就学前から、ひいばあちゃんの部屋で一緒に、ありとあらゆる時代劇をみてきた。

当時だと、

まず代表格は、TBSナショナル劇場の『水戸黄門』『大岡越前』+α。

 

TBSは、なかなか盛んで、いろいろな時代劇を制作していた。

まぁ、フォーマットはだいたい同じだったけど。

いわゆる「TBSドラマ」のフォーマット。

有象無象出てきて、割台詞で喋るみたいな。

大岡越前』に関しては現在、そのフォーマットごとNHKに移管されている。

 

フジテレビは、鬼平藤枝梅安など、硬派な作品が多かった。

剣客商売はまだ続いているね。

 

日テレは、どちらかといえば青春ドラマ×時代劇みたいな感じの作品が多い印象。

私の『銭形平次』ファーストインプレッションは、この日テレ版。

主演は、風間杜夫

みんな「銭形平次大川橋蔵」っていうんだけど、オンタイムでみてないからね。

こればっかりは仕方ない。

 

テレビ朝日も面白い作品を作ってた。

有名なのは『暴れん坊将軍』ね。もちろん、みてたよ。

でもね、好きだったのは『三匹が斬る!』シリーズ。

主演が、高橋英樹役所広司春風亭小朝、当時まだアイドルだった長山洋子の印象が強い。(別の女優さんも演じられていたらしい。)

 

テレ朝はその後も比較的、見やすい時代劇を放送する枠が残っていて、高校くらいに放送していた『八丁堀の七人』が、実は大好きだったりする。

最後スペシャルでいいから1本やってほしかったなと、いまだに思っている。

だってオチついてないじゃん。

 

それぞれの時代劇で、結構覚えている話とかも多くて、再放送されていると、オープニングをみただけで、展開とオチがわかる、古めの作品も多かったりする。

(その才能を別方面で活かせないものか。。。)

 

昨今はテレビ時代劇が少なくなってきてしまって、非常に残念に思っていたりもする。

 

さて。

前置きが長くなってしまったけれど、そんな「時代劇すきー」の私が、心の拠り所にしているといっても過言ではない(いや、多分過言だ)、NHKBSプレミアムの時代劇枠。

 

今回は、『小吉の女房』。

山本むつみ先生の、完全オリジナル作品。

 

山本むつみ先生は、言わずと知れた有名脚本家で、NHKでいったら『ゲゲゲの女房』とか、大河ドラマ『八重の桜』とか、そのほかにも多くのNHK作品に関わっている。

デビューがNHKだからね。

『八重の桜』も好きよ。戊辰戦争終結までしかみてないんだけど。

 

主人公は、勝海舟

…ではなく、その母と父。

 

勝海舟ものといえば、『父子鷹』が有名で、現在の松本白鸚さんと幸四郎さんでやった日テレの作品が、私にとっては印象深い。

 

最初聞いた時、『父子鷹』を下敷きにしつつなのかな?と思ったら、とんでもない。

勝海舟が残した、父や、母を評する文章や、小吉が残した文章から、完全オリジナルで描かれた作品。

 

ホームドラマとして、テンポがだいぶゆっくりになってしまう回もあるのだけど、全8回しかないし、なにせ主演の沢口靖子の美しさでオールオッケーという感じ。

そして話毎に書かれる、沢口靖子の美文字。

 

父の小吉役は古田新太

破天荒さがぴったり。

 

麟太郎は、途中から鈴木福

そして、遺作…ではないのかな?江波杏子が沢口のおばあさん役で、めちゃくちゃいい。まさに、Theいじわるばあさん。

 

いじわるばあさんと、養子である小吉の小競り合いもなかなか面白かったんだけど、

最終話でその、いじわるばあさんが亡くなった時、今まで「ばばぁ」と呼んでいた小吉が「おふくろ様」と呼んでおいおい泣くシーンにグッときてしまった。

さすが古田新太。うまいなぁ。

 

完全オリジナルでここまでできる山本先生がやっぱりすごいし、NHKの回数っていい感じだよねって思う。たまに中途半端な回数だなとは思うけど、絶妙なんだなと。

 

民放もクールにこだわらずに作ればもう少しマシな作品増えるかね?

 

次のBS時代劇は何がくるかしらね。

2019.3.17(日)今日はなんの日?【渡辺綱について】

諸々調べておりましたら、こんなかたの忌日でした。

 

渡辺綱

 

ご存知です?このかた。

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渡辺綱

こんな感じのかたなんですが。

実は私、このかたの子孫……のようです。

 

詳しくはウィキペディア兄さんにきいていただけると助かるのですが。

ja.wikipedia.org

 

頼光四天王の筆頭で、酒呑童子退治や、一条戻橋で鬼の腕を切った伝説など、鬼関係の話題には事欠かない人物です。

 

なので、我が家では節分の豆まきというものを行なったことがありません。

必要ないからです。

 

鬼が怖がって寄ってこない家なんだそうです。

死んだひいばあちゃんが言ってました。

 

もちろん、傍流ですよ?

本流は確か大阪の方にあるんです。

 

ひいばあちゃんがいうには、我が家はもともと、岐阜の「カナモリ」という家系です。

武家です。

この武家の「カナモリ」というのは織田信長の家臣団の中にいまして、それをたどっていくと、くだんの「渡辺綱」に行き当たり、さらには光源氏のモデルといわれている「源融」に行き当たります。

 

ひいばあちゃんの言ってたことは正しかったんだなぁと思うと同時に、

今の自分自身も歴史の中にいるんだなと思って、歴史好きの血がさわぐんですよ笑

 

まぁ、根拠を示せと言われると難しいんですけどね…。

 

2019.3.14(木)パイの日

お題「どうしても言いたい!」

 

「パイの日」ときいて、なに思い浮かべます?

 

「アップルパイ」とか。

「クリームパイ」とか。

三角チョコパイ」とか。

 

うん。実に平和。良き良き。

 

「おっぱい」と思ったあなた!

さてはただの助平ですね!!(金田一風)

 

正確に申しますと、「πの日」。

3.14だからだそうです。

πを「約3」で勉強した人たちにとっては、なんの話?という感じでしょうか。

 

教育って大事ですよね。

「ゆとり」と呼ばれる人たちだって、好きでゆとりになったわけじゃないですからね。

我々が好きで不景気の真っ只中に青春だったわけじゃないのと同じです。

 

バブルにはちっとも憧れません。

その後がやばいことを知っているから。

その後に生まれて、「ロストジェネレーション」なんて言われてきましたので。

 

私は、日本人にはあまりにも自由がないと思う。

「働くことは生きること」だけど、「生きることは働くこと」じゃない。

 

まじで。

自分自身もストレスの塊だなと思うわけです。

20時間勤務10日間(締め切りあり)とか、ストレス以外の何物でもない。

 

好きなことだけで生きていけるほど甘くない世の中ですが、

好きなことすらできない人生を歩みたいわけじゃないんですよ。

 

ワークライフバランスなんて生ぬるいこといってないで、休みくれ。

本当に。